西岡由香さんの福島訪問記

西岡由香さんの福島訪問記を転載します。

太田光征

こんにちは、長崎の西岡です。

(いくつかのMLへの重複お許しください)

おととい、昨日と福島に行ってきました。

黙示録の断面に触れたような・・様々な思いが私の中に

渦巻いています。

舌足らずですが報告記、ごらんいただけたら嬉しいです。

7月31日、雨。福島駅前で開かれた原水禁大会は、全国から

集まった人波1800人で埋まりました。駅前広場の空間線量は、

安全とされる0.1マイクロシーベルトの10倍の1マイクロシー

ベルト/時間。誰かが「歴史上初めて、放射線管理区域内での

集会だ」って。

地元の方々が次々にマイクを握って訴えました。

「福島県民200万人のうち20万人が県内避難をし、根なし草に

なってしまった。逃げ回るうちに心身ともに疲れ、病み、

福島全体が疲れている。屋外活動を禁止されている子どもは

10万人。去年は福島に530校の修学旅行があったが今年は30校。

福島は夏競馬があり、競馬場の表土を入れ替えることになったが、

学校や保育園は未着手。私たちは競馬馬よりひどいのか。

放射能を恐ろしいと感じるのは、その人の感性と想像力と知識に

よって感じ方が全く違う。そのことで人々の間に格差が生まれ

ている。事故以来、病人は3倍多く亡くなっているし、希望を

失った酪農家や農家の自殺など、数字に表れない犠牲がある。

飼育していた豚はとも食いをしながら餓死していった。

数字に表れている死はほんの一点にすぎない。子どもに「将来の

夢」の作文を書かせても書けなくなった。放射能は夢や希望までも

奪い去ってしまった。原発ほど、世代間不公平を作り出すものはない。

「この時期なら見えるはずの水田が見えないんです。

いつもなら青々とした田んぼが水をたたえているのに、40km四方、

去年刈り取った稲株がそのまま白く腐っている。沈黙の春です。

日本人がはるか昔から途切れず続けてきた農作の糸が切れてしまった。

祖先に対して償いきれない」

福島市内のホテルに宿泊し、翌日、希望者80名で南相馬市と
飯舘村に向かいました。

月曜日の朝というのに学生の姿も、出勤する人々の姿もほとんど

見かけません。時々見える人はほとんどがマスクなし。福島駅前から90分

ほどで南相馬市役所に到着し、すぐに桜井市長のお話が始まりました。

「市長になって2年目ですが、南相馬市がこんなに有名になろうとは。

毎日、背筋が凍る思いで過ごしています。71000人の市民のうち3万人

が町を離れた。小中学生は6千人だったが今は2300人。受験生を持つ

親は来年募集があるのか、まだ決まっていない。一番苦しんでいる

のは一般市民。この国は学校現場で放射能の勉強をさせない方向で

きたのではないのか。国からは「10km圏外は防災計画を持っては

ならない」と言われてきた。母親たちは「1ミリシーベルトでも

帰れない」と言う。福島市でも夏休み中2千人が転校する。

3月11日後、南相馬は電気も電話も通じない陸の孤島となり、国から

原発事故の連絡がきたのは3月17日、東電からは3月22日。日本の

メディアは放射線が怖いからかすべて去っていき、かわりに外国の

メディアがどんどん入ってきた。南相馬市は原爆が落ちたような

恐怖心の中に皆が置かれている。市長として3月15日、独断で住民

避難をさせた。その中には未だに戻れない住民もいて「避難させら

れたんだから補償しろ」という住民もいる。原発からの距離で、

国の補償額は線引きされていて、住民同士に補償格差が生まれている。

邪推かもしれないが、住民をズタズタにする戦術かもしれない。多く

の住民がいま闇の中にいる。彼らの気持ちにそい、現場から発信して

いかなければ。世界史的な災害だからこそ、世界史的な復興を

とげることが大切」

市長のお話は20分。すぐ次の用事へと発って行かれましたが、会場

からは「各都市が“非核都市宣言”のように“脱原発都市宣言”を

しては」という意見も出されました。

そして飯舘村へ。

家の中に洗濯物を干している一軒以外は、ほとんどカーテンが閉められた

主のいない家が連なっていました。

突然断ち切られた時間のはざまに、村全体がぽっかり浮いている

ようでした。

空間線量4.24マイクロシーベルト。

地面に線量計を置くといきなり上がり始めて26.8マイクロシーベルト。

雨どいの下 112マイクロシーベルト。

顔を覆いたかった。私たちは、限りない恩寵を人に与えてくれていた

自然に対してなんてことをしてしまったんだろう。

「花をさわるな」と言われて育つ子どもたちや、自然から切り離さ

れたヒトはもはやヒトではない何者かに変容していくんじゃない

だろうか。

たった数分いただけでも怖かった。放射能は、「得体の知れない

恐怖そのもの」でした。人々が恐怖と疲弊のあまり警鐘に耳をふさぎ、

「安心安全」に頼ろうとしても、それを頭ごなしに責めることは、

もう私にはできない。

飯舘村。

原爆の焦土が終末的空間なら、ここはいったいどこなのだろう。

人の寿命と放射線の寿命。この世の時間と、この世ではない時間の

かさなり。石牟礼道子さんは水俣を「苦海浄土」と呼んだけれど、

ここは「陸の苦海浄土」だ。

人がいなくなった村に、白や赤い花々が風に揺れていました。

長崎へ帰る飛行機のイヤホンから、バッハの「G線上のアリア」が

流れてきました。バッハは300年後の人々に聖水のような旋律を

届けてくれた。私も、未来の人々に一滴の聖水を届けるような

作品が描けるだろうか。

答えを探す旅はこれからです。

西岡由香

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