二大政党制をあきらめない?
朝日新聞が10月19日付のインタビュー「二大政党制をあきらめない」で、豊永郁子氏の見解を紹介している。
朝日新聞デジタル:豊永郁子さんに聞く二大政党制(全文を読むには会員登録が必要)
http://www.asahi.com/news/intro/TKY201210180752.html
豊永氏は冒頭、インタビュアーから「政権交代の成果に心底がっかりしている人が多いと思います」とふられ、「中東の春」などのように血を流さずに政権交代を成し遂げた日本の例を「実はすごいこと」と評価し、政権交代のプロセスを比較するが、日本における成果については言及していない。
「そうは言っても、政権交代のメリットがあまり実感できません」と迫られると、旧政権との比較で「大震災や原発事故での自らの失策や迷走について、驚くほど正直」だった点をメリット(?)として挙げる。原子力ムラのトップが委員長に収まった原子力規制委員会の例などをみても、私としては納得できない認識だが。
さらに豊永氏は「93年に政権交代が起こってからは、民主主義に起こりがちな問題は指摘されても、民主主義であること自体は問われなくなった。政治体制という大きな枠組みから見れば、日本は90年代までとは別の国になった」とみている。一般的な民主主義ニーズからして何らかの進化があるのは当然といえる。論点としてはその要因が特定の政党制とか選挙制度にあるかどうかにある。
「長い目で見れば、日本の政治は着実に進化している、と」と確認を迫られ、「そう思います。今の民主党に政権を担う力量はない。それでも政権交代があったことは良かったし、二大政党制的な政権交代のシステムを早期に確立するのが次の課題です」と述べている。いきなり「二大政党制的な政権交代のシステム」の必要性が主張されるが、その理由が見当たらない。
中選挙区制や多党制については、「望ましい政党制をつくるために政界再編をしたり選挙制度をさらにいじったり、という議論にはもう飽き飽きです。安定した多党制は自然に『二大勢力間の競争』という形をとる。二大政党制と多党制の間に本質的な違いはありません」というのが豊永氏の考えだ。
望ましい政党制をつくるための選挙制度論議に反対するという点に私も同意するが、それは議論に飽き飽きしたからではなく、選挙制度は主権者の平等な主権を保障するためにあるのであって、何らかの政治的構想を実現する手段ではないからである。平等な主権を保障するための選挙制度論議が今こそ必要である。
私は、参議院議長も経験したことのある某政治家の事務所に選挙制度改正で話をしたいと申し入れても、市民とは話をしない、とあからさまに言われた。これが現在の二大政党の実態である。民主的な選挙制度を創出するための国民的熟議など一度も行われていない。私は飽き飽きするどころか、議論のないことに辟易している。
「安定した多党制は自然に『二大勢力間の競争』という形をとる。二大政党制と多党制の間に本質的な違いはありません」――こんな歴史的事実があるのだろうか。それなら豊永氏にとって多党制でもよさそうなものだが、「今さら多党制を持ち出すのは周回遅れ」と言う。
さらに豊永氏は「二大政党制的な政治システムにも、法律を補うインフォーマルなルールが必要」として、消費税増税に関する民自公3党合意の成立後に、3党合意を批判している首相問責決議案に自民が賛成した点を、「合意の試みはインフォーマルなルールを作るチャンスでしたが、政治家たちは、その可能性を見事につぶしてしまった」と批判する。
豊永氏が批判しているのは、民意に反する民自公合意というインフォーマル談合ではなく、インフォーマルルール構築の機会を逃した点だ。倒錯している。
そして豊永氏は、二大政党制的モデルに理論的基盤を与えたのがシュンペーターで、彼が「民意」を根底から疑っていることを紹介している。豊永氏も同じ見解なのだろうか。
豊永氏によれば、シュンペーターにとって「政策に関する共通意思など存在せず、個人の合理的な判断も国レベルの政策にまではおよばない。でも、人々には政策は分からなくても人を見る目はある。選挙の主な目的は政策ではなく、政権を担う政治家を選ばせること」なのだそうだ。
シュンペーター(〜1950年)の時代と比べ、現在ははるかに民主主義コミュニケーションが容易になっている。しかし、政府は3.11後、原子力エネルギー政策をめぐって、論点から放射線による健康影響などを除外して、パブリックコメント募集や熟議世論調査を形ばかり行って、それに基づいて(?)「革新的エネルギー・環境戦略」を決定し、最終的に同戦略を不断に見直す、つまり反故にする閣議決定を次期政権への贈り物として残した。
民意がないのでもなく、個人が国政について合理的な判断ができないのでもなく、権力が民意を無視するという、フォーマルな民主主義ルールの未確立が続いているだけだ。インフォーマルルールどころではない。
私は、民主党が3.11後に早くも、通常国会で衆議院比例区定数の80削減を実現すると改めて公言し、原発を押し付けてきた差別に加え、脱原発少数政党に投じる1票の価値をさらに減じるという――「選挙区間1票の格差」との違いの重みを考えてもらいたい――さらなる差別を原発事故被害者に押し付けようとしている政治状況を真っ先に問題視するが、豊永氏は日本の民主主義状況を象徴する3.11後の政治過程をどのように評価しているのだろう。
米軍基地の沖縄への押し付け差別と合わせ、「差別の解消が第一」に照らして政治を反省する過程が、3.11後に一斉に開始されるべきだったのである。
『サッチャリズムの世紀――作用の政治学へ』(創文社、1998年)、『新保守主義の作用――中曽根・ブレア・ブッシュと政治の変容』(勁草書房、2008年)を著している豊永氏が、悠長に「(二大政党制を)見限るのは早過ぎる。まだまだ幸せになる努力が足りない」と主張する「政治展望」は、現実の政治被害者にとってあまりありがたい言葉ではない。
朝日新聞は脱原発寄り人物の主張をシリーズ記事などで盛んに紹介するが、こうした主張を大元で葬り去る二大政党制と小選挙区制に本質的な批判を加えようとはしない。豊永氏も最後に、放射能汚染の実態について押し黙る風潮、被災地における「絆」の強調などに対して懸念を表明しているが、二大政党制に固執し、朝日と相似する。
豊永氏にしても朝日にしても、二大政党制という悠長な展望ばかりでなく、現実の政治被害者にとっての民主主義という視点で語ってほしい。
太田光征
【参考】
日本のテレビ局はなぜ反原発の動きを報じ損ねたのか?(金平茂紀)
http://www.asahi.com/digital/mediareport/TKY201209070270.html
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