教育基本法と「公共」

皆様へ

稲垣久和です。

教育基本法改正反対、全国的に高まって、多くの方々の署名も集まっているのは大いなる励みです。まだ時間があると思い、下記のものを朝日新聞に投稿し、今日(12月4日)の朝刊・オピニオン「私の視点」に掲載されました。「『公共の精神』の議論を深めよ」との趣旨です。小生の『宗教と公共哲学』(東大出版会、2004年)237頁以下の「教育基本法改正の問題」を基にしています。まだやることが残っています。たとえ成立したとしても今後とも「公共の精神」を「公の秩序」に即して解釈させない議論の喚起が必要でしょう。

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 教育基本法改正案の大きな争点は「愛国心」の導入である。しかし「公共の精神」(前文、第2条3項)の意味も問題だ。というのは「公共」の意味が改正案全体の中で整合的に吟味されていないからである。
 「公共」とは、一口でいえば「特定の国民だけでなくすべての人に開かれている共通の関心事」で、「異質な他者と対話し、触れあいながら、協働で生活を築き上げる広場」を意味している。「市民社会」を形成するためのダイナミックな概念だ。
 これに対し、「公」は従来の日本語では、国、官、政府、お上、天皇といった「おほやけ」の意味で使われてきており、両者はまったく違う。
 改正案には「法律に定める学校は、公の性質を有する」「私立学校の有する公の性質」(第6、8条)と「公」という言葉も使われているが、文脈に沿って読む限り、「公」と「公共」は何も区別されていない。
 意味の違いを考えれば、私立学校が有する性質は「公」ではなく「公共」のはずだ。要するに今回の法案は、「公」や「公共」という日本語の言葉や概念の使い方がいいかげんで、まるで「伝統と文化を尊重」(第2条5項)していない。こんなずさんな法案を「教育の憲法」として、確定していいのであろうか。
 今回の法案に先立ち、文部科学省の中央教育審議会が02年11月、教育基本法改正についてまとめた中間報告では、「公共」は国境を越え、国際的に市民社会の成熟を目指す積極的な概念ととらえていた。
 それは例えば、「地球環境問題など、国境を超えた人類共通の課題が顕在化する中で、公共が国際的規模にまで拡大している現在、互恵の精神に基づきこうした課題の解決に積極的に貢献しようという、新しい公共の創造への参画もまた重要」といった表現に見てとることができる。
 だが、03年3月の最終答申では、この一文はなくなり、中間報告で感じられた新たな市民的公共性の息吹は抑え込まれてしまった。
 この方向は、国会で審議中の改正案でも踏襲されて強化され、「公共の精神」は「公の秩序」と同義語になってしまった。新しい「公共」と古い「公」(=お上)の違いはとてつもなく大きい。
 前文などに「公共の精神」として盛り込まれている「精神」の意味も気になる。そもそも、第2条で「教育の目標」と称し、法律文にくどくどと徳目や「精神」が説かれていることも問題だ。精神主義を鼓吹しているのではないか。
 愛国心と同時に連想するのは戦前の民族精神である。この場合の「精神」は少し歴史を調べれば分かるように「滅私奉公の心」という内容をもっていた。
 「公」にしろ、「公共」にしろ、国家や国民、市民社会の根幹に関わる言葉だ。戦後60年を経てもなお、これらが十分に深められていない中で、教育基本法や憲法が改正されようとしている。仕切り直しをして国民的な議論をもっと深めることを提言したい。

(本人の了解を得て転載)

One Response to “教育基本法と「公共」”

  1. 現在 Says:

    今の日本…

    教育基本法、いじめの話題 (more…)

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