都知事を投げ捨てた石原慎太郎と国政の構図

四回の都知事選の様子を振り返ると、石原慎太郎は、後出しジャンケンがうまい。

それにしても、都知事選に次点の候補者に倍近い得票を得てきた石原慎太郎の独特な得票支持のさきがけは、まだ若い頃に参院選の全国区に出馬して、数百万票という驚くべき得票を獲得してトップ当選によって、「石原慎太郎神話」が形成された。私は、実弟の石原裕次郎の国民的な人気が最大の要因と考えている。「真面目にガリ勉」して有名大学をめざしていた慎太郎は、芸能界に入る前から軟派として遊びまわっていた弟に、ひそかな劣等感を抱いていたことを活字に記したことがある。弟裕次郎と弟が属する湘南の中流家庭で経済的余裕も遊び回っても何ら自分の進路や就職に困ることのない道楽息子たち。その風俗を小説に形象化した石原慎太郎が描いた「太陽の季節」世代こそ、その後も作家石原慎太郎に共感をもち、ヒーロー視した。石原裕次郎のプロダクションは、「石原軍団」と呼ばれてきたが、毎回の石原一族の選挙には大衆受けした裕次郎人気便乗した「石原軍団」が選挙の実働部隊として応援してきた。後に石原慎太郎が都知事選に立候補した時も、石原自身のポピュリズムとともに、石原裕次郎フアンの後押しも選挙の「空気」を左右してきた。 高度経済成長期に入り、大衆社会現象が開始され、戦後直後の労働運動の激しい攻防が朝鮮戦争やレッド・パージ、日本共産党の極左冒険主義、六全協などによって、戦後日本社会の風景は変わってくる。

若い世代にはあまり知られていないかも知れないが、六〇年安保闘争の際に、大江健三郎、江藤淳、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、六〇年安保に反対した。石原は、一橋大学でも進歩派の南博教授のゼミに所属していた。おそらく石原が都知事選でも国政選挙でも圧倒的な得票を得る背景に、左翼的な心情を一応はわかることが、なんらかの力学として作用しているものと思える。

高度経済成長は、同時に日本国民の私生活主義を満足させていった。社会意識は多様化されて、戦後政治が政党乱立を経てから、保守陣営の自由党と民主党の合同による自民党の誕生と、それに先立ち左派社会党と右派社会党の合同による統一した社会党の誕生により、二大政党(実際の政党の規模は、一と二分の一政党)の時代が中心となった。日本共産党は、政治意識的には労働運動家や知識人、学生達に根強い支持基盤をもってはいたものの、毎回の国政選挙では自社二大政党の後塵を拝する少数政党であった。社会党から民社党が分かれ、支持母体の創価学会を土台にした公明選挙同盟が公明党として成立した。政党多党化時代に入ったとマスコミは伝えた。  石原慎太郎は、六〇年安保の敗北の頃からしだいに右派的色彩を強めて、参議院議員となってからは、最初は中曽根康弘の派閥にいた。極右改憲の政治信条に共鳴するものがあったのだろうか。しかし、石原はしばらくして福田赳夫派に転じた。岸派を継承した福田派には、右派政治家が多かったが、その政治的主張は合理的保守派で、観念的空想的なタカ派の中曽根氏と異なる。

さて、このように戦後政治史の流れを俯瞰したのは、石原慎太郎の背景を知るためであった。石原慎太郎は、1960〜70年代の革新自治体誕生の政治の季節で、東京都知事となった労農派経済学者の美濃部亮吉と選挙戦で闘うこととなる。美濃部都政の三期目に挑戦したが、美濃部都知事を破ることはできなかった。三期目に挑戦して敗北した石原慎太郎は、敗北の弁をこう語り、それを読んだ私はいまだに記憶している。 「東京にファシズムが台頭したなら、その時私は再び立つ」。これは石原慎太郎の演説である。
1975年頃から始まった保守化の時代、独占資本は「企業社会化」を進めていく。労働者は右傾化し、革新自治体も京都、東京、名古屋、大阪、沖縄と敗北していく。

いま二十一世紀に入り十年以上を超えた。国政は、野田民主党と安倍自民・公明党とが次の政権を争う形勢にある。堺屋太一が財界とアメリカ政府の隠れた要望を背景に、橋下徹を持ち上げ続けて、「維新の会」を立ち上げる。しかし、橋下徹のあまりの無茶苦茶さに維新の会に加わった国会議員や政策立ち上げの応援者たちも、政策や言動の無責任な首尾「不」一貫と冷静な政治家とは無縁な感情的な思いつき発言の脈絡のなさなど、しだいにマスコミを煽った橋下ブームの演出そのものが破綻をきたした。政府民主党もだめ、自公もだめ、そうして画策した橋下維新の会も地金が露出してしまった。一方、「国民の生活が第一」を率いる小沢一郎は、ドイツを訪れて原発廃止した様子を丹念に調べてまわり、国政選挙に取り組む政策の土台形成の本物をうかがわせた。小沢は、中小野党とオリープの木に擬した政治連合を構想している。

そこに唐突に都知事の仕事を無責任に投げ捨てて、石原慎太郎は、「オリーブの木」と言い出した。財界やアメリカ政府など陰の支配層は、野田民主もだめ、安倍自民も世論を得られず、橋下維新の会は一時のブームは消え去り、といった現状に危機感を抱いている。そこで出てきたのがアメリカのCIAの要員と言われたこともある石原慎太郎の全く突然の国政復帰宣言である。自民党幹事長だった長男石原伸晃が、総裁選に出馬し落選したことも石原慎太郎の背中を押した節が見られるという説もある。

本来なら、日本共産党や社民党を軸に、左翼以外の野党を結集して

、『国政選挙にファシズムを通すな!!』
のスローガンのもとに、反野田民主・反自公・反維新・反石原新党のもとに勢力結集をはかるべきである。日本共産党は、小沢一郎を今も金権政治家と決めつけている節が見られる。政府の厚労省の局長さえ、冤罪で不当逮捕される時代である。かりに小沢一郎を危険視するにしても、政界の勢力図を見れば、小沢が親ファシズムか、反ファシズムか、どちらの側に軸足を置いているのかを見れば、一目瞭然である。国民は、多くの失望をいだきながらも、真に民衆のことを考えている政治家たちが結集してなにをか目指そうとしているならば、惜しみなく応援する。その点ではかつての日本共産党の指導者だった宮本顕治の卓越した情勢把握と対応策、上田耕一郎の民衆の心情を理解した寛容な政治的指導は、いまの日本共産党指導部に求められている両面である。共産党や社民党が今までのような選挙方針で闘うなら、壊滅的敗北は目に見えている。そのときに、石原一党と安倍自民が選挙に勝利し、民主党の惨敗に続く共社の敗北は確定的となる。小生が考える唯一の対案は、「国民の生活が第一」を軸として、自民や維新の会以外の野党共闘を くむこと、そしてその共闘は選挙区と比例区で棲み分けて、小選挙区制度の現段階の選挙区においては、バーターで当選可能な野党候補を押し出し共闘して闘うことだ。比例区はそれぞれの政党に一任して、戦い抜くこと。
もはや国政選挙は、間近の都知事選から開始されている。

櫻井 智志

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