メディアは「身切り論」(国会議員定数の削減)から決別を

メディアは「身切り論」(国会議員定数の削減)から決別を

2013年10月17日

朝日新聞御中
毎日新聞御中

 朝日新聞は10月2日、毎日新聞は10月3日に、消費税増税との引き替えで国会議員定数を削減すべきという「身を切る改革」を主張しました。

「身を切る改革」どこへ 定数削減進まず 消費増税決定
http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201310010676.html
選挙制度改革:3党実務協議で民主譲歩 増税控え合意急ぐ
http://mainichi.jp/select/news/20131004k0000m010087000c.html

 毎日新聞は「国民に負担増を求める消費税率8%への引き上げを来春に控え、国会議員の『身を切る改革』は急務」と言いきり、朝日新聞はそこまで直接的ではないものの、「身を切る改革」を政党に迫っていることが明らかです。

 なぜメディアが「身を切る改革」にこだわるのか、<何の>改革を主張しているのか、分かりません。国会議員(というより政党)には身切りを迫りながら、メディアは消費税増税の対象から外してもらいたいというのだから、なおさらです。メディアは民主主義に欠かせないからと主張されたいなら、国会議員は何だというのでしょうか。メディアの皆さまは相当の高給取りという点でも、国会議員と変わりません。

 「身切り論」、とりわけ消費税増税との抱き合わせでの「身切り論」には大きな問題があります。当団体でも再三にわたって政党などにこの問題を訴えてきました。

民意を生かす政治・公正な報道を求める要望書(実行委員会による)
http://kaze.fm/wordpress/?p=469
選挙権関連の格差は「定数配分の格差」だけではありません〜「0増5減」は無所属候補に対する差別を拡大する〜
http://kaze.fm/wordpress/?p=468
「国民負担と引き替えの国会議員定数削減」「有権者の権利を縛るネット選挙法案」で各党議員に要望
http://kaze.fm/wordpress/?p=445

 朝日新聞は(消費税増税を前提に)「そもそも定数削減は、与野党のトップが自ら言い出した約束だった」と述べていますが、民意の支持を得ていない消費税増税を前提とする定数削減という約束も筋違いなら、「与野党のトップ」だけの勝手な約束に国民が縛られるのも筋違いというものです。

 オスプレイの押し付け、原発政策の維持という押し付け、生活保護費の切り下げという押し付けなど、政府が国民に強いる「国民負担」は数多くありながら、なぜか消費税増税という「国民負担」だけに限って身切り論が持ち出されます。

 消費税増税という国民負担と引き替えで国会議員が身を切るべきだ主張したいのなら、政党助成金の廃止や議員活動費に回される分以外の生活費としての議員歳費の減額などを主張すべきでしょう。毎年、引退議員が出るのであり、新人議員の立候補者数を減らせば現役議員の椅子が減ることはないのだから、定数を減らしたところで議員が身を切ることなどできないのです。

 何より問題なのは、定数削減が、国民の身を切ること、民意を削ぐこと、国民主権を切り縮めること――そのものだということです。定数削減により民意を削ぐことで、民意を無視した政治が行われ、国民に不利益な施策が押し付けられる可能性が考慮されていません。言い換えれば、民主主義の効用というものが無視されているに等しいのです。

 あたかも定数削減が国民にとって有益であるかのごとくメディアが主張することは、まったく考えられません。

 身切り論から決別されるとともに、以前からお願いしていますように、上記要望書を基にした懇談の機会を設けていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

「平和への結集」をめざす市民の風
http://kaze.fm/

3 Responses to “メディアは「身切り論」(国会議員定数の削減)から決別を”

  1. 東島雄二 Says:

    なぜ日本の民主主義は弱いのか。
    どうすれば、自らの意思を正確に立法に反映させ、国家を縛っていけるのか。ずっと考え続けてきたことですが、いまだに方向が見えません。
    「見切り論」のような幼稚で安直な論理がメディアで大手を振っているのも不思議です。

  2. 東島雄二 Says:

    世界の資本主義がグローバルに投機性を高め、再生産性を軽視する方向に進んでいるのに対し、インターナショナルな対抗軸の形成なしに国ごとの改革は困難なはずなのに、その方向が目に見えて示されていないことに、深刻な危機を感じております

  3. 東島雄二 Says:

     生長の家の転換にはびっくりしました。
    でも、じっくり考えてみれば、今の宗教と政治をめぐる状況は不可解なことが多くあります。
     とくに創価学会が立憲主義から逸脱して平和への希求を放棄し、抑止力という名目の軍事力信仰を支え、人間を殺傷することに存在意義を見出す兵器産業の肥大化を後押しし、人間を崩壊させるギャンブルを肯定し、人間の統御に余る原子力発電を推進する政権のイチジクの葉でしかなくなっていることは将来、歴史的にどう評価されるのか、しっかり分析する必要があると思います。
     現代を生きる宗教者は本来、人類の可能性を肯定的にみつめることにこそ、その存在意義を見出しうるはずだと思うのです。
     その点では、成長の家の判断には宗教者の良心を見る思いがします。

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