都知事を投げ捨てた石原慎太郎と国政の構図

10月 28th, 2012 Posted by sa104927 @ 18:06:15
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四回の都知事選の様子を振り返ると、石原慎太郎は、後出しジャンケンがうまい。

それにしても、都知事選に次点の候補者に倍近い得票を得てきた石原慎太郎の独特な得票支持のさきがけは、まだ若い頃に参院選の全国区に出馬して、数百万票という驚くべき得票を獲得してトップ当選によって、「石原慎太郎神話」が形成された。私は、実弟の石原裕次郎の国民的な人気が最大の要因と考えている。「真面目にガリ勉」して有名大学をめざしていた慎太郎は、芸能界に入る前から軟派として遊びまわっていた弟に、ひそかな劣等感を抱いていたことを活字に記したことがある。弟裕次郎と弟が属する湘南の中流家庭で経済的余裕も遊び回っても何ら自分の進路や就職に困ることのない道楽息子たち。その風俗を小説に形象化した石原慎太郎が描いた「太陽の季節」世代こそ、その後も作家石原慎太郎に共感をもち、ヒーロー視した。石原裕次郎のプロダクションは、「石原軍団」と呼ばれてきたが、毎回の石原一族の選挙には大衆受けした裕次郎人気便乗した「石原軍団」が選挙の実働部隊として応援してきた。後に石原慎太郎が都知事選に立候補した時も、石原自身のポピュリズムとともに、石原裕次郎フアンの後押しも選挙の「空気」を左右してきた。 高度経済成長期に入り、大衆社会現象が開始され、戦後直後の労働運動の激しい攻防が朝鮮戦争やレッド・パージ、日本共産党の極左冒険主義、六全協などによって、戦後日本社会の風景は変わってくる。

若い世代にはあまり知られていないかも知れないが、六〇年安保闘争の際に、大江健三郎、江藤淳、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、六〇年安保に反対した。石原は、一橋大学でも進歩派の南博教授のゼミに所属していた。おそらく石原が都知事選でも国政選挙でも圧倒的な得票を得る背景に、左翼的な心情を一応はわかることが、なんらかの力学として作用しているものと思える。

高度経済成長は、同時に日本国民の私生活主義を満足させていった。社会意識は多様化されて、戦後政治が政党乱立を経てから、保守陣営の自由党と民主党の合同による自民党の誕生と、それに先立ち左派社会党と右派社会党の合同による統一した社会党の誕生により、二大政党(実際の政党の規模は、一と二分の一政党)の時代が中心となった。日本共産党は、政治意識的には労働運動家や知識人、学生達に根強い支持基盤をもってはいたものの、毎回の国政選挙では自社二大政党の後塵を拝する少数政党であった。社会党から民社党が分かれ、支持母体の創価学会を土台にした公明選挙同盟が公明党として成立した。政党多党化時代に入ったとマスコミは伝えた。  石原慎太郎は、六〇年安保の敗北の頃からしだいに右派的色彩を強めて、参議院議員となってからは、最初は中曽根康弘の派閥にいた。極右改憲の政治信条に共鳴するものがあったのだろうか。しかし、石原はしばらくして福田赳夫派に転じた。岸派を継承した福田派には、右派政治家が多かったが、その政治的主張は合理的保守派で、観念的空想的なタカ派の中曽根氏と異なる。

さて、このように戦後政治史の流れを俯瞰したのは、石原慎太郎の背景を知るためであった。石原慎太郎は、1960〜70年代の革新自治体誕生の政治の季節で、東京都知事となった労農派経済学者の美濃部亮吉と選挙戦で闘うこととなる。美濃部都政の三期目に挑戦したが、美濃部都知事を破ることはできなかった。三期目に挑戦して敗北した石原慎太郎は、敗北の弁をこう語り、それを読んだ私はいまだに記憶している。 「東京にファシズムが台頭したなら、その時私は再び立つ」。これは石原慎太郎の演説である。
1975年頃から始まった保守化の時代、独占資本は「企業社会化」を進めていく。労働者は右傾化し、革新自治体も京都、東京、名古屋、大阪、沖縄と敗北していく。

いま二十一世紀に入り十年以上を超えた。国政は、野田民主党と安倍自民・公明党とが次の政権を争う形勢にある。堺屋太一が財界とアメリカ政府の隠れた要望を背景に、橋下徹を持ち上げ続けて、「維新の会」を立ち上げる。しかし、橋下徹のあまりの無茶苦茶さに維新の会に加わった国会議員や政策立ち上げの応援者たちも、政策や言動の無責任な首尾「不」一貫と冷静な政治家とは無縁な感情的な思いつき発言の脈絡のなさなど、しだいにマスコミを煽った橋下ブームの演出そのものが破綻をきたした。政府民主党もだめ、自公もだめ、そうして画策した橋下維新の会も地金が露出してしまった。一方、「国民の生活が第一」を率いる小沢一郎は、ドイツを訪れて原発廃止した様子を丹念に調べてまわり、国政選挙に取り組む政策の土台形成の本物をうかがわせた。小沢は、中小野党とオリープの木に擬した政治連合を構想している。

そこに唐突に都知事の仕事を無責任に投げ捨てて、石原慎太郎は、「オリーブの木」と言い出した。財界やアメリカ政府など陰の支配層は、野田民主もだめ、安倍自民も世論を得られず、橋下維新の会は一時のブームは消え去り、といった現状に危機感を抱いている。そこで出てきたのがアメリカのCIAの要員と言われたこともある石原慎太郎の全く突然の国政復帰宣言である。自民党幹事長だった長男石原伸晃が、総裁選に出馬し落選したことも石原慎太郎の背中を押した節が見られるという説もある。

本来なら、日本共産党や社民党を軸に、左翼以外の野党を結集して

、『国政選挙にファシズムを通すな!!』
のスローガンのもとに、反野田民主・反自公・反維新・反石原新党のもとに勢力結集をはかるべきである。日本共産党は、小沢一郎を今も金権政治家と決めつけている節が見られる。政府の厚労省の局長さえ、冤罪で不当逮捕される時代である。かりに小沢一郎を危険視するにしても、政界の勢力図を見れば、小沢が親ファシズムか、反ファシズムか、どちらの側に軸足を置いているのかを見れば、一目瞭然である。国民は、多くの失望をいだきながらも、真に民衆のことを考えている政治家たちが結集してなにをか目指そうとしているならば、惜しみなく応援する。その点ではかつての日本共産党の指導者だった宮本顕治の卓越した情勢把握と対応策、上田耕一郎の民衆の心情を理解した寛容な政治的指導は、いまの日本共産党指導部に求められている両面である。共産党や社民党が今までのような選挙方針で闘うなら、壊滅的敗北は目に見えている。そのときに、石原一党と安倍自民が選挙に勝利し、民主党の惨敗に続く共社の敗北は確定的となる。小生が考える唯一の対案は、「国民の生活が第一」を軸として、自民や維新の会以外の野党共闘を くむこと、そしてその共闘は選挙区と比例区で棲み分けて、小選挙区制度の現段階の選挙区においては、バーターで当選可能な野党候補を押し出し共闘して闘うことだ。比例区はそれぞれの政党に一任して、戦い抜くこと。
もはや国政選挙は、間近の都知事選から開始されている。

櫻井 智志

1票の格差とは何か

10月 22nd, 2012 Posted by MITSU_OHTA @ 2:48:53
under 選挙制度 , 定数配分の格差(1票の格差) No Comments 

(1) 2010年参院選の定数配分について最高裁が違憲状態の判決――裁判官の裁量を越える個別意見「議員定数削減の流れの中で…」/選挙制度の目的を逸脱した個別意見「選挙制度の仕組みの基本となる理念や政策的目的…」
(2) 「1人1票」は「選挙区間1票格差」を解消しても実現しない(「一票の実質的価値」の差異は、「選挙区間1票格差」より「生票・死票間1票格差」にある)――小選挙区間の1票格差は<投票者>の<1票の実質的価値>の差異というより、<都道府県>などに配分される議席数の格差、すなわち<地域代表性>の格差である
(3) 1票格差を解消するには、議員1人の当選に要する票数をあらかじめ設定すればよい
(4) 選挙制度による格差が憲法審査会に持ち込まれた――民意とずれのある国会で改憲発議をしても恥ずかしくないのか
(5) 格差をさらに拡大する定数削減――身切り論=定数削減神話「消費税増税に反対の民意を国会から追い出すので消費税増税を了解してくれ」
 
 

(1) 2010年参院選の定数配分について最高裁が違憲状態の判決――裁判官の裁量を越える個別意見「議員定数削減の流れの中で…」/選挙制度の目的を逸脱した個別意見「選挙制度の仕組みの基本となる理念や政策的目的…」

今回が初めてではないが、衆議院に続いて参議院の選挙でも定数配分について最高裁から違憲状態の判決が出た。違憲状態だとか冷温停止状態だとか、日本では曖昧な言葉が多いが、ともかく原告の長い努力の末、1票格差に関心が集まり出した。

平成23年(行ツ)第64号 選挙無効請求事件
平成24年10月17日 大法廷判決
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20121017181207.pdf
「1票の格差」訴訟 上告審判決の要旨  :日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1704J_X11C12A0CR8000/?nbm=DGXNASDG1703R_X11C12A0MM8000

ただ、道のりはまだまだ長いという感がある。判決はあくまで「選挙区間1票格差」に言及したものであって、死票と生票の間の格差を是正するように求めたわけではない。

選挙区間1票格差が憲法で規定された投票価値の平等性に反するというなら、論理必然的にそれより重大な死票・生票間格差の是正こそが真っ先に求められ、それを通じて選挙区間1票格差を是正するのが自然であるが、判決の重みを盛んに主張するメディアは、格差の本丸にほとんど目を向けない。

定数判決―参院のあり方論ずる時
http://digital.asahi.com/20121018/pages/shasetsu.html
【主張】「違憲状態」判決 衆参とも急ぎ格差是正を
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/121018/trl12101803130001-n1.htm
社説:参院選「違憲状態」 抜本改革を突きつけた− 毎日jp(毎日新聞)
http://mainichi.jp/opinion/news/20121018k0000m070132000c.html
参院1票の格差 抜本改革へ最高裁の強い警告 : 社説・コラム : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20121017-OYT1T01507.htm?from=ylist
東京新聞:一票の格差 平等の実現に早く動け:社説・コラム(TOKYO Web)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2012101802000113.html

メディアは自ら選挙制度改正案を提案することで、国会議員の「怠慢」を正すという選択肢もあるはずだが、最近では民主党が格差是正で足を引っ張っている、と主張するところもある。

社説:1票の格差放置 怠慢にもほどがある (毎日新聞、2012年06月03日)
http://mainichi.jp/opinion/news/20120603k0000m070088000c.html
「『1票の格差』是正と定数の大幅削減、選挙制度見直しの3点を同時決着させるのは各党の思惑が絡んで不可能に近い。それはこれまでの協議で明らかなはずだ。それを承知で持ち出すのはなぜか。」
質問なるほドリ:選挙制度改革、なぜもめるの?=回答・野口武則(毎日新聞、2012年08月17日)
http://mainichi.jp/opinion/news/20120817ddm003070099000c.html
「Q 今回のように抜本改革や定数削減までやろうとしたら、もめるだけだよね。」

それでいて、公明党の井上義久幹事長が違憲状態で選挙を行ってもやむを得ないという主旨の発言をしても、批判することはない。

衆院選挙制度改革:0増5減先行 民主・公明が柔軟姿勢 (毎日新聞、2012年10月15日)
http://mainichi.jp/select/news/20121015k0000e010112000c.html
「井上氏は『国の現状を考えると、衆院解散を優先してしかるべきだ。やむを得ない』と述べ、次期衆院選を最高裁が指摘する違憲状態で実施することもやむを得ないとの考えを示した。」

今回の最高裁判決は「都道府県を単位として各選挙区の定数を設定する現行の方式をしかるべき形で改めるなど、現行選挙制度の仕組み自体の見直し」という表現で、選挙制度の仕組みの見直しを求めてはいるが、区割りを問題にする程度で、選挙制度の本質的な改正を想定しているようには思えない。

それどころか、最高裁判決では、いとも安易に「総定数を増やす方法をとるのにも制約」があると意見表明し、個別意見では、金築誠志裁判官が「議員定数削減の流れの中で、選挙区選出議員の総数を増加させることは考え難く」と述べ、あたかも定数削減が既定路線のようにとらえている。この見解表明は裁判官の裁量を越えている。定数削減が1票格差と本質的に関連していることを認識していないらしいことも深刻である。

竹内行夫裁判官にいたっては、「参院議員選挙制度の仕組みを検討するに当たっては、参院のあり方にふさわしい選挙制度の仕組みの基本となる理念や政策的目的などを国民に速やかに提示し、具体的な検討を行うことが強く望まれる。」とし、相変わらず選挙制度を「政策的目的」で規定しようとする発想を判決意見の中で表明するという不見識ぶりである。

選挙制度は主権者の平等な主権を保障するための制度であって、政権交代しやすくするとか、二大政党制に誘導するとかの政治的目的で歪めてはならない。
 
 

(2) 「1人1票」は「選挙区間1票格差」を解消しても実現しない(「一票の実質的価値」の差異は、「選挙区間1票格差」より「生票・死票間1票格差」にある)――小選挙区間の1票格差は<投票者>の<1票の実質的価値>の差異というより、<都道府県>などに配分される議席数の格差、すなわち<地域代表性>の格差である

日経は1票格差について「有権者が多い選挙区ほど1票の価値は小さくなり、逆に少ないほど価値は大きくなる」と解説するが、この命題は限定条件の下でしか成立しない。

「1票の格差」何が問題? 有権者の平等損なう 選挙制度、国会に裁量権 :日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGKDASDC17008_X11C12A0EA1000/
Q 「1票の格差」とはどのような問題か。
A 選出される議員1人当たりの有権者数が選挙区によって異なることから、有権者の1票の重みに不平等が生じることを指す。有権者が多い選挙区ほど1票の価値は小さくなり、逆に少ないほど価値は大きくなる。

2つの小選挙区で有権者数がまったく同じであったとしても、一方の選挙区で当選得票数が10万票、別の選挙区で落選得票数が20万票のような場合があり得る。この場合、1票価値が同じであるということはない。「選挙区間1票格差」がなくとも、「1票の実質的価値」に差異は生じ得る。

「ある選挙区Aの1票価値が別の選挙区Bの0.2倍である」などの命題は、選挙区Aの有権者すべてに当てはまるものでなく、限定条件下で、死票ではなく生票を投じた投票者グループにしか当てはまらない。

【「一票の格差」違憲状態】堂々巡り浮かぬ原告 「基準示された」評価も(産経、2012年10月17日)
http://www.sankeibiz.jp/compliance/news/121017/cpb1210172155011-n1.htm
「伊藤真弁護士は地域格差が記載された日本地図を指し示し『あなたは半人前、あなたは0.2人前と言われ、腹が立たない人がいますか?』」

選挙区Aの<有権者>すべての1票価値が選挙区Bの<有権者>すべての1票価値と比べ等しく0.2倍なのではなく、投票率が両選挙区で同じ場合に、あくまで生票を投じた<投票者>を両選挙区で比べ、選挙区Aの<投票者>は選挙区Bの<投票者>と比べ、議員1人を当選させるのに5倍の票を必要とするということを意味し、死票を投じた有権者に1票価値などまったくなく、0.2倍などの比較は意味を成さないのである。

選挙区間1票格差はあくまで、投票率が両選挙区で同じ場合に、生票を投じた<投票者>グループの間で、議員1人当たりの投票者数を比較した比率としてしか意味を持たない。

東京弁護士会の会長声明にある「一票の実質的価値」の差異は、裁判の対象となった「選挙区間1票格差」そのものより、「生票・死票間1票格差」にこそある。

1票の較差をめぐる最高裁大法廷判決に関する会長声明(2012年10月17日)
http://www.toben.or.jp/message/seimei/
「選挙権は、民主主義の根幹を構成する重要な権利である。一票の実質的価値に明らかな差異が生じることを許容するならば、有権者の意思を公平かつ合理的に立法府に反映させるための平等選挙制度の機能は著しく阻害されることになる。」

「1票の実質的価値」を小選挙区と複数定数区で詳しく考えてみる。

1人区だけの小選挙区制では、「選挙区間1票格差」を是正(区割り変更)しても各選挙区で定数に増減はない。小選挙区制における1票の価値は、どの政党を支持する票かということと、その選挙区における政党支持率を主要な条件として、生か死かのどちらかに決定されてしまう。他選挙区と比べて議員1人当たりの有権者数が多いから1票の実質的価値が小さくなる、ということではない。

中選挙区制・大選挙区制では、議員1人当たりの有権者数が少なくなる、あるいは定数が増えれば、名目的に「選挙区間1票価値」が高まるだけでなく、より多くの投票者の票が生票となる確率が高まると同時に、より少ない票数で生票になる確率が高くなるので、実質的にも「選挙区間1票価値」が高まる。

有権者数100万人(20万人 x 5)に定数5の中選挙区aと、有権者数20万人に定数1の小選挙区bでは、「選挙区間1票価値」は同じとされる。有権者数10万人に定数1の小選挙区cは、前2者より「選挙区間1票価値」は高いとされる。

しかし、少数政党の候補は小選挙区で当選しにくいから、少数政党の支持者にとって、小選挙区cの高い「1票価値」は実際的価値が低く、「1票価値」の低い中選挙区aの方がありがたい。小選挙区と複数定数区の間で選挙区間1票格差を比較しても「実質的価値」を比較することはできない。

現在の1票格差論が問題にしているのは、必ずしも<投票者>の<1票の実質的価値>の差異ではなく、小選挙区の場合は<都道府県>など(小選挙区より大きい範囲)に配分される議席数の格差、すなわち<地域代表性>の格差に他ならない。もっとも、小選挙区制で当選した議員は多数を代表するとは限らないので(コンドルセのパラドックス)、その地域を代表する保証はない。

コンドルセのパラドックス
http://kaze.fm/wordpress/?p=215#8

例えば、島根県や神奈川県の間で「選挙区間1票格差」がある場合は地域代表性の格差があると言えるが、各県内の小選挙区の間だけで「選挙区間1票格差」があっても、両県の間に「1票格差」がない場合、「地域」の定義を都道府県とすれば、地域代表性の格差はないことになる。

「1票価値」が島根1区で1.5、島根2区で0.5、神奈川1区で1.5、神奈川2区で0.5だとする。島根1区の「1票価値」は神奈川2区のそれよりが3倍高いとされるが、両県の1区、2区全体でみれば、議席配分数は両県でまったくのお相子となる。「1票価値」が3倍だからといって、議員を3倍選出できるわけではない。どの選挙区も1人を選出する。

小選挙区制では民主や自民などの大政党しか当選しないから、「選挙区間1票格差」の是正は大政党支持者にとってしか意味がなく、大政党の議席をある都道府県から別の都道府県に移動させるくらいにしかならない。

<有権者>には「1票価値」がゼロの死票を投票する<投票者>も含まれるから、議員1人当たりの有権者数で「1票格差」を比較することがそもそも間違い。議員1人当たりの<投票者>数を比較しなければ、「1票の実質的価値」を比較することはできない。

小選挙区制は、1つの選挙区で30%が生票に、残り70%が死票になるというような格差を認めるものである。こうした致命的な生票・死票間1票格差を放置して、選挙区間1票格差ないし地域代表性格差だけを是正すればよいというものではない。
 
 

(3) 1票格差を解消するには、議員1人の当選に要する票数をあらかじめ設定すればよい

1票格差を解消するには、議員1人の当選に要する票数をあらかじめ設定し、死票を生票に生かす仕組みを作ればよい。また政党候補と無所属候補の間の格差も解消する必要がある。

電子投票システムなどを使って何日もかければそれは実現するが、そんな手間をかけていられないというなら、近似的な制度を作るしかない。

中選挙区比例代表併用制を提案する
http://kaze.fm/wordpress/?p=164
 
 

(4) 選挙制度による格差が憲法審査会に持ち込まれた――民意とずれのある国会で改憲発議をしても恥ずかしくないのか

衆参で既に憲法審査会の委員と会長が選出されている。委員は各会派の議席占有率に応じて配分されるので、小選挙区制を中心とする選挙制度の歪みがしっかり審査会にも受け継がれているのである。

衆院でみると、各党における憲法審査会の委員占有率と2009衆院選の比例区得票率はそれぞれ、民主で64%、42.4%、自民で24%、26.7%、公明で4%、11.5%、共産で2%、7.0%などとなっており、民意とのずれが大きい。

「選挙区間1票格差」の是正は主張されても、改憲過程における格差の重大性はあまり深刻に語られない。日本維新の会などは「維新八策」で「1票格差」の是正策も新選挙制度案もまったく提案していない。民意とずれのある国会で改憲発議をしても恥ずかしくないのだろうか。
 
 

(5) 格差をさらに拡大する定数削減――身切り論=定数削減神話「消費税増税に反対の民意を国会から追い出すので消費税増税を了解してくれ」

原発安全神話は崩れても定数削減神話は健在だ。神話というより信じているふりだと思うが。国会議員は機会あるごとに国会議員定数の削減に努める考えを述べている。

消費税増税という負担を国民にお願いする前に、国会議員自らが身を切り、血を流してみせる必要があるのだという。辺野古新基地やオスプレイという負担を沖縄に押し付ける前に国会議員が身を切るべきだ、血を流すべきだ、などとは主張しないが。

民主党が主張しているように衆院の比例区定数を80削減すれば、1票格差はさらに拡大する。

2010参院選の結果を基に、比例区定数を80削減した場合の衆院比例区選挙をシミュレーションすると、社民党議員1人の当選に要する票数は、民主党議員1人の当選に要する票数の4.98倍となる。「選挙区間1票格差」論で問題にしている2倍どころではない。比例区定数を削減しても民主党は身を切ることはできないが、身を肥やすことならできる。

2010参院選――結果分析
1. 定数が100に削減された場合の衆院比例区選挙シミュレーション
http://kaze.fm/wordpress/?p=309#2010e1

民主党などの身切り論は、消費税増税、辺野古新基地建設、オスプレイ配備、原発維持などを主張していない他党を国会から追い出し、真逆の政策を支持している有権者の意見を切り捨てるから、それらの政策に了解願います、というものである。一体どういう論理と心理と礼節なのか。

消費税増税などを主張する政党のみが身を切るべきだ、あるいはキャバクラ代(自民党の安倍晋三総裁が支部長を務める自民党山口県第4選挙区支部)、温泉代、ヘアーメーク代などを政治資金で支払っている政党に対する政党助成金を減額すべきだ、いうならまだ理解できる。

国民負担と引き換えに国会議員が身を切るのであれば、国会議員の身は3・11後に一片も残っていないのではないか。福島原発事故の被害者は身を切り、血を流した。原発を維持しようという政党・議員こそ身を切るべきである。

日々、現役議員の引退が伝えられている。民主党などは新人議員の立候補者数を減らせば現役議員の椅子が減ることはないのだから、民主党が主張する程度の議員定数を削減したところで、そもそも身を切る、血を流すことなどできない。

2010参院選――結果分析
4. 定数削減でも身の切りようがない
http://kaze.fm/wordpress/?p=309#2010e4

国会議員が本当に身を切りたいのなら、選挙制度改革を主権者主導の枠組みに委ねたらどうか。
 
 
太田光征

二大政党制をあきらめない?

10月 20th, 2012 Posted by MITSU_OHTA @ 21:06:58
under 選挙制度 No Comments 

朝日新聞が10月19日付のインタビュー「二大政党制をあきらめない」で、豊永郁子氏の見解を紹介している。

朝日新聞デジタル:豊永郁子さんに聞く二大政党制(全文を読むには会員登録が必要)
http://www.asahi.com/news/intro/TKY201210180752.html

豊永氏は冒頭、インタビュアーから「政権交代の成果に心底がっかりしている人が多いと思います」とふられ、「中東の春」などのように血を流さずに政権交代を成し遂げた日本の例を「実はすごいこと」と評価し、政権交代のプロセスを比較するが、日本における成果については言及していない。

「そうは言っても、政権交代のメリットがあまり実感できません」と迫られると、旧政権との比較で「大震災や原発事故での自らの失策や迷走について、驚くほど正直」だった点をメリット(?)として挙げる。原子力ムラのトップが委員長に収まった原子力規制委員会の例などをみても、私としては納得できない認識だが。

さらに豊永氏は「93年に政権交代が起こってからは、民主主義に起こりがちな問題は指摘されても、民主主義であること自体は問われなくなった。政治体制という大きな枠組みから見れば、日本は90年代までとは別の国になった」とみている。一般的な民主主義ニーズからして何らかの進化があるのは当然といえる。論点としてはその要因が特定の政党制とか選挙制度にあるかどうかにある。

「長い目で見れば、日本の政治は着実に進化している、と」と確認を迫られ、「そう思います。今の民主党に政権を担う力量はない。それでも政権交代があったことは良かったし、二大政党制的な政権交代のシステムを早期に確立するのが次の課題です」と述べている。いきなり「二大政党制的な政権交代のシステム」の必要性が主張されるが、その理由が見当たらない。

中選挙区制や多党制については、「望ましい政党制をつくるために政界再編をしたり選挙制度をさらにいじったり、という議論にはもう飽き飽きです。安定した多党制は自然に『二大勢力間の競争』という形をとる。二大政党制と多党制の間に本質的な違いはありません」というのが豊永氏の考えだ。

望ましい政党制をつくるための選挙制度論議に反対するという点に私も同意するが、それは議論に飽き飽きしたからではなく、選挙制度は主権者の平等な主権を保障するためにあるのであって、何らかの政治的構想を実現する手段ではないからである。平等な主権を保障するための選挙制度論議が今こそ必要である。

私は、参議院議長も経験したことのある某政治家の事務所に選挙制度改正で話をしたいと申し入れても、市民とは話をしない、とあからさまに言われた。これが現在の二大政党の実態である。民主的な選挙制度を創出するための国民的熟議など一度も行われていない。私は飽き飽きするどころか、議論のないことに辟易している。

「安定した多党制は自然に『二大勢力間の競争』という形をとる。二大政党制と多党制の間に本質的な違いはありません」――こんな歴史的事実があるのだろうか。それなら豊永氏にとって多党制でもよさそうなものだが、「今さら多党制を持ち出すのは周回遅れ」と言う。

さらに豊永氏は「二大政党制的な政治システムにも、法律を補うインフォーマルなルールが必要」として、消費税増税に関する民自公3党合意の成立後に、3党合意を批判している首相問責決議案に自民が賛成した点を、「合意の試みはインフォーマルなルールを作るチャンスでしたが、政治家たちは、その可能性を見事につぶしてしまった」と批判する。

豊永氏が批判しているのは、民意に反する民自公合意というインフォーマル談合ではなく、インフォーマルルール構築の機会を逃した点だ。倒錯している。

そして豊永氏は、二大政党制的モデルに理論的基盤を与えたのがシュンペーターで、彼が「民意」を根底から疑っていることを紹介している。豊永氏も同じ見解なのだろうか。

豊永氏によれば、シュンペーターにとって「政策に関する共通意思など存在せず、個人の合理的な判断も国レベルの政策にまではおよばない。でも、人々には政策は分からなくても人を見る目はある。選挙の主な目的は政策ではなく、政権を担う政治家を選ばせること」なのだそうだ。

シュンペーター(〜1950年)の時代と比べ、現在ははるかに民主主義コミュニケーションが容易になっている。しかし、政府は3.11後、原子力エネルギー政策をめぐって、論点から放射線による健康影響などを除外して、パブリックコメント募集や熟議世論調査を形ばかり行って、それに基づいて(?)「革新的エネルギー・環境戦略」を決定し、最終的に同戦略を不断に見直す、つまり反故にする閣議決定を次期政権への贈り物として残した。

民意がないのでもなく、個人が国政について合理的な判断ができないのでもなく、権力が民意を無視するという、フォーマルな民主主義ルールの未確立が続いているだけだ。インフォーマルルールどころではない。

私は、民主党が3.11後に早くも、通常国会で衆議院比例区定数の80削減を実現すると改めて公言し、原発を押し付けてきた差別に加え、脱原発少数政党に投じる1票の価値をさらに減じるという――「選挙区間1票の格差」との違いの重みを考えてもらいたい――さらなる差別を原発事故被害者に押し付けようとしている政治状況を真っ先に問題視するが、豊永氏は日本の民主主義状況を象徴する3.11後の政治過程をどのように評価しているのだろう。

米軍基地の沖縄への押し付け差別と合わせ、「差別の解消が第一」に照らして政治を反省する過程が、3.11後に一斉に開始されるべきだったのである。

『サッチャリズムの世紀――作用の政治学へ』(創文社、1998年)、『新保守主義の作用――中曽根・ブレア・ブッシュと政治の変容』(勁草書房、2008年)を著している豊永氏が、悠長に「(二大政党制を)見限るのは早過ぎる。まだまだ幸せになる努力が足りない」と主張する「政治展望」は、現実の政治被害者にとってあまりありがたい言葉ではない

朝日新聞は脱原発寄り人物の主張をシリーズ記事などで盛んに紹介するが、こうした主張を大元で葬り去る二大政党制と小選挙区制に本質的な批判を加えようとはしない。豊永氏も最後に、放射能汚染の実態について押し黙る風潮、被災地における「絆」の強調などに対して懸念を表明しているが、二大政党制に固執し、朝日と相似する。

豊永氏にしても朝日にしても、二大政党制という悠長な展望ばかりでなく、現実の政治被害者にとっての民主主義という視点で語ってほしい。
 
 
太田光征

【参考】

日本のテレビ局はなぜ反原発の動きを報じ損ねたのか?(金平茂紀)
http://www.asahi.com/digital/mediareport/TKY201209070270.html

放射性物質汚染対処特措法施行規則の改正案(廃棄物管理基準の緩和)に対するパブリックコメント

10月 4th, 2012 Posted by MITSU_OHTA @ 0:06:53
under 福島原発事故 , パブリックコメント No Comments 

環境省 報道発表資料−平成24年9月4日−放射性物質汚染対処特措法施行規則第二十八条、第三十条及び第三十一条の一部を改正する省令案に対する意見の募集(パブリックコメント)について(お知らせ)
http://www.env.go.jp/press/press.php?serial=15654

環境省大臣官房廃棄物・リサイクル対策部廃棄物対策課御中

「放射性物質汚染対処特措法施行規則第二十八条、第三十条及び第三十一条の一部を改正する省令案に対する意見」

[1] 氏名  太田光征
[2] 住所
[3] メールアドレス otasa@nifty.com
[4] 意見

1.背景?の「事故由来放射性物質(セシウム134・137)の放射能濃度の合計が8,000Bq/kg 以下の廃棄物については、通常行われている処理方法によって、周辺住民、作業者のいずれにとっても安全に処理することが可能であると考えられる」について
(意見の要約)8000Bq/kgという基準に合理的根拠がない。
(理由および根拠)原子炉等規制法に基づくクリアランスレベルは100Bq/kgであり、同法案が議論されていた当時は10Bq/kgにすべきとの見解もあったくらいで、少なくとも100Bq/kgを超える廃棄物は厳重に管理しなければならないとされているのであるから、事故由来放射性廃棄物について100Bq/kgを超える基準を設定すべき根拠はない。

2.要件見直しの考え方(案)?および?の「事故由来放射性物質の放射能濃度が6,400Bq/kg を超える廃棄物が排出されておらず、事故由来放射性物質により一定程度に汚染された廃棄物の多量排出が今後見込まれないと考えられる」について
(意見の要約)「6,400Bq/kg以下」「多量排出が今後見込まれない」の両条件が成立しても放射性物質の環境動態は不明であるから、両条件をもって要件の見直しはできない。
(理由および根拠)6,400Bq/kg以下の廃棄物が少量ずつでも、長年にわたって集積すれば大量になり、その大量になった廃棄物の環境動態が不明であるから、「6,400Bq/kg以下」「多量排出が今後見込まれない」の両条件が同時に満たされるとしても、基準緩和をしてよい理由にならない。

2ページ脚注「天日乾燥は機械による脱水・乾燥に比べて乾燥の期間が長く、昨年生じた汚泥が放射性物質汚染対処特措法施行規則施行後も乾燥汚泥として排出されているためと考えられる」について
(意見の要約)この推定は信頼できず、これに基づく要件見直しも同様。
(理由および根拠)学校プールを昨年除染しても、今年測定すると線量が高くなっている事例が千葉県白井市などで確認されており、砂塵によって放射性物質が供給されたことを意味していると考えられることから、天日乾燥と機械乾燥の違いの原因についてもさらなる検討が必要である。

図2 「特定一廃・特定産廃要件見直し概要」の「廃稲わら」および「廃堆肥」について
(意見の要約)廃稲わらおよび廃堆肥については特別な基準を設けること。
(理由および根拠)廃稲わらおよび廃堆肥などのバイオマスは分解によって容量が激減し、放射性物質濃度が激増するから、バイオマスについての廃棄物基準と無機物についての廃棄物基準が同じでよいはずはなく、バイオマス分解後の放射性物質濃度と環境挙動を考慮しなければならない。

図2の「汚泥」「除染廃棄物」について
(意見の要約)「汚泥」の主成分は土壌であると推定され、同じく土壌を主成分とする「除染廃棄物」と同様に扱うのが合理的。
(理由および根拠)同上。

3ページ脚注および3.その他?の 「公共下水道及び流域下水道の流動床炉から生ずるばいじんについては、溶出率が極めて低いとの知見」について
(意見の要約)同知見は信頼できず、同知見に基づく要件見直しも同様。
(理由および根拠)同知見は極めて限られた時間内での物質挙動に関するものであり、長期間にわたって多様な物質と混合した状態での挙動に関しては不明である。

4.今後の予定の「平成24年10月頃を目途に公布し、速やかに施行する予定」について
(意見の要約)十分な知見が得られるまで、要件の緩和は行わないこと。
(理由および根拠)上述した通り。