大政翼賛会でさえも選挙供託金制度の撤廃を図っていた

10月 31st, 2013 Posted by MITSU_OHTA @ 20:50:06
under 選挙制度 , 裁判 No Comments 

第23回参議院選挙無効請求訴訟( http://kaze.fm/wordpress/?p=478 )の準備書面の作成のために、過去の国会審議を調べています。

第2回口頭弁論が11月21日午後3時30分から東京高裁511号法廷(5階)であります。傍聴をよろしくお願いします。

所在地(東京高等裁判所)
http://www.courts.go.jp/tokyo-h/about/syozai/tokyomain/

以下は、昭和33年の国会公聴会における柚正夫公述人の見解です。冒頭に抜粋を載せておきますが、普通選挙の導入と引き替えに立候補権と選挙権が制限されたきた歴史がまとめられています。大政翼賛会でさえも選挙供託金制度の撤廃を図っていた。

「供託金制度は、一九二五年、大正十四年わが国に初めていわゆる一通選挙法が施行されまして、イギリスの制度にならって新設せられましたもので、当事衆議院議員について二千円ときめられました。立法趣旨は、普選に伴う候補者の乱立を防止しようとするにあったのであります。そうして実際のねらいは、無産政党の進出を抑えることにあり、当初内務事務当局案が一千円であったのを、既成政党側は二千円に引き上げられたと伝えられております。」

「供託金制度の上述の性格が理解されましたためか、一九三八年、昭和十三年でありますか、第一次近衛内閣のときに、水野錬太郎総裁は議会制度審議会で一千円に減額する答申を行なっております。次いで、二年後の一九四一年、大政翼賛会は選挙制度改革に関する基本資料を作成いたしました際、賛否両論はあったものの、供託金制度の撤廃をはかっております。旧憲法下でさえ、選挙民の代表者選択権はこのように尊重せられるのか当然であるといたしますと、最初述べましたような意味を持った現憲法下の選挙過程にありましては一そう当然であり、それ以外の態度はあり得ないのであります。従って、各種選挙における供託金の引き上げは、民主国家の選挙法規として原理的にふさわしくない処置といわなければなりません。」

「普通選挙制以前の制限選挙制のもとでは、選挙運動はきわめて自由で、戸別訪問も大っぴらに許されていました。一九三五年の普通選挙制とともに、選挙運動の規制が細部にわたってわずらわしくなり、罰則もきびしくなりました。」

「戦後になりまして、当初選挙運動の規制はかなあらゆるやかになりました。第三者選挙運動も、政党や推薦団体の政治活動がかなり大幅に認められたのであります。」

「一九五〇年、昭和二十五年の公職選挙法は、選挙運動の規制を強化し、その後の改正で、候補者の所属政党や推薦団体による政治活動を制限する傾向を示して今日に至っております。」

国会会議録検索システム
http://kokkai.ndl.go.jp/

30 - 衆 - 公職選挙法改正に関する… - 1号
昭和33年10月30日

○杣公述人 柚正夫であります。選挙法のあり方につきまして、平素私が考えておりましたことと、今回の公職選挙法改正案の主要な項目と関連づけて、意見を申し上げようと存ずるのであります。あとから申しますように、選挙法というのは政治道徳と密接な関係を持った法律でありますので、その点私の意見が、あるいは皆様にとりまして釈迦に説法といったような道徳話めくかもしれないのでありますが、皆様か選挙法、従ってそれに伴う政治道徳において釈迦に位置して下さるならば、選挙制度を研究している研究者といたしまして、まことにうれしいことでありますので、こうした釈迦に説法もどうか御容赦願いたいのであります。
 ます、選挙法というのは、国政の働きの上でどのような位置を持っておるかということに関連してなのであります。代議制の統治過程は、選挙過程、国会過程、それから行政、司法等の法制の実現過程という順次に相次ぐ一つの段階からでき上っているのであります。そうして最初の選挙過程と、最後の行政過程で一般国民に接しているのであります。いわばそういう窓口を持っているのであります。この接し方は、選挙過程は国民の意思を徴するのであり、あとの行政等の過程は国民に奉仕し、あるいは国民を統制するといった接し方であります。選挙過程におけるこの国民の統治への意思を聞くという接し方は、言うまでもなく、国民に主権がある場合、国民の主権性の最も主要な発現形態であるのであります。さて、国会は統治に関する最高の権能を持っておりますから、こうした国民の主権的意思の発動によって選ばれた国会議員は、国民の主権的な権力の現実のにない手になるのであり、中でも衆議院は第一院として、より優越した権限を参議院に対して持っている関係上、衆議院議員は国民の主権的権力のより優越した行使者、実現者となるのであります。つまり国会議員は、国民主権の具体的実現者であります。このような国会議員団は、もっぱら選挙過程を通して選出せられ、構成せられます。ここでもっぱらと特に申しましたのは、旧憲法で、貴族院の構成は選挙によらない別の方法によったことかあったからであります。こう考えますと、選挙過程が、それに次ぐ国会過程、行政等の過程に、まさるとも劣らない重要性を持つことがうなずけるのであります。従って、この選挙過程を規律する選挙制度の中心法規としての選挙法の重要性を、あらためて認めていただきたいと思うのであります。国家の統治過程について考えた以上のことは、地方公共団体についても、多少の修正はあるものの、基本的には同じように当てはめることかできると思います。
 第二に、国会の以上のような意味に加えて、議院内閣制をとることによって、国会の議員勢力の意味が、旧憲法時代とは比較にならないほどの重さを加えてきたことを指摘しなければなりません。旧憲法の時代には、内閣は国会の、そうして衆議院の多数を持っているかどうかには関係せず成立し、総辞職をしたのであります。内閣の総辞職は、元老、重臣、一部閣僚、軍部等々の意向によって、やむなくせられることも多かったのは御承知の通りでございます。ところが現在の議院内閣制のもとでは、内閣は、国会の多数に支持せられている限り、議員の任期のある間、内閣を維持できるのであります。国会の多数派は、内閣の死命を制する絶大な権力を持っているわけです。そこで、もし極端な場合、国会の多数派が国民の圧倒的な意向を無視したり、ある片寄った党派的利益を重視したり、国民の重大な困難にしいて知らぬ顔をしたりしても内閣は議員の任期中は安閑としていることもできるわけです。つまり国会の多数勢力、そして内閣は、議員の任期中は自分に対して責任を負うだけで、他のいかなる機関にも責任を負わず、他のいかなる勢力からも統治の権限を制約せられることは、制度的にはないのであります。国会議員、それも特に衆議院議員の任期中は、その多数勢力の政権担当者としての良心だけが、いわばその多数勢力の統治の監督者、批判者であります。主権者である国民全体は、議員の任期中は、よき国政を全く議員の多数勢力の良心に期待するだけであるというのがわが統治制度の実際であります。そうして選挙は、このような統治権行使のいわば全権委任を行う機会であり、同時にまた、それまでの統治を批判する機会でもあります。有名なルソーの言葉に、イギリスの議会政治を見て、「人民は選挙のときだけ自由であるが、選挙が済めば奴隷になる」と申したのは、こういう関係の悪い面を皮肉に言ったのであります。この関係を言いかえますと、内閣を含めて、政府の政治責任を根本的に問う機会は、選挙をおいてほかに憲法では作られていないことであります。それゆえ選挙の意味が、旧憲法と全く違った思い政治目的を持つようになったのであります。
 最近の選挙法に関する学者の意見の中に、「憲法は旧憲法から根本的に変った。ところがその重要付属法規である選挙法は、旧憲法下の体裁を基本的には維持継承せられてきている。これは問題である。」というのがありますが、この点私も同感であります。その理由は、上に述べました通り、選挙の意味か全く変ったからであります。従いまして、選挙において、国民の国政に関する意向ができるだけ正確に反映できなければなりません。もし選挙過程で、政党が国政に対する国民の批判や意向を公正にくみ取らなかったならば、国政は、人民のための政治となっていく反省の機会を失うことになるのであります。もしそうなら、ルソーの皮肉、すなわち「選挙のときは人民は自由である」より、もっと悪くなるのであります。こういう理由で、選挙法の制定、改正には、政党の党派性を去った、公正な良心的態度が要望せられるのであります。
 選挙法は、従来わが国では、選挙過程の手続を定めたところの技術性の勝った法律として理解されてきました。訴訟法や商法の手形法のような技術性の強い法律であるというのであります。こういう理解は、旧憲法下では、ある程度理由がないではなかったのであります。こういう見解に対し、戦後、それも最近になって、選挙法の倫理法的性格――政治法的性格とも言えますか、それが学界で強調せられるようになりました。確かに選挙法は、その条文を見ますと、何円とか何メートルとか何枚とかの、こまごました手続的、技術的規定に満ちていて、一見技術性の勝った法律であるかに見えます。しかしそれにもかかわらず、選挙法は、基本的には、むしろある一定の政治目的に使える政治性の勝った政治法であります。このことは私が申し上げるまでもなく、皆さんか実感としてそう受け取っておられるのではないかと思うのであります。選挙法が基本的によるべき政治性、すなわち倫理性とは、選挙過程がいかなる倫理目的によって規制せられるべきかの問題なのであります。倫理とは、人間にとっての価値にかかわる事柄と一応理解しておいていただきますか、いわゆるモラル、道徳に高い低いがありますように、国政に関係したモラル、倫理品的にも高い低いかあるのでありまして、選挙法のよるべき倫理目的についても同様であります。民主政治としての代議制の選挙過程を律すべき選挙法のよるべき最高の倫理目的は、国民の国政に関する意見や意向を公正にくみ取り、それを指導的に実現していけるような代表の選出ということであります。もちろんこれは理想でありまして、容易に実現し得るものではありません。これに反して、選挙法かしばしばよらしめられる低い倫理H的とは、骨うまでもなく、一党の党派的利益の実現の手段とせられることであります。選挙法が、党派的利益の実現という低いモラルに従嘱した選挙の手続的技術の体系となっては、国民の政治的不幸は甚大なものであります。もちろん、このような日収悪の状態にはなかなか落ち込むことはない上信じられますが、しかし、人間、そして人出からなる政治団体としての政党は、ともすればこの方向に引かれがちであります。もちろん現実の社会の実際の関係によって、選挙判が制約せられることも当然あるのであります。それゆえ、選挙制度、選挙法の改正の方向は、その社会、政治の実際に即しながら、しかも国民生活のための公正な理想的選挙法を目ざすことでなければなりません。選挙法の立法当事者は、他のいかなる立法作業にもまさって、党派的利巳心を良心的反省によって排除していっていただかねばならないのであります。このため、選挙法に限って、その立法を党派をこえた特別の機関に委託するとか、あるいは選挙法の立法に当る委員会を与野党同数で構成するとかいった、党派性排除の保証のための制度的措置も考慮されてしかるべきであると思います。わか国の代議制がどうにか発展していくとすれば、将来当然そういうことが実現するであろうと存ずるのであります。
 以上、長々と述べました倫理的論議は、結局のところ、選挙法審議には党利党略を排除しなければならぬゆえんの説明であったのであります。
 次に、こうした観点から、今回の公職選挙法改正案の主要な三項目、知事及び市長の現職立候補の規制、立候補供託金の引き上げ、政党その他の政治団体の選挙における政治活動の規制に関する意見に移ります。
 知事及び市町村長の任期満了に伴う選挙において、在職のまま立候補することを禁止する旨の改正は、多少影響する向きもありましょうか、これに関しては異論はありません。しかし、こういう独任制の公職について、あまりそういう問題に神経質になっても、それほど効果はないのではないかとも一面思うのであります。しかし大した異論はありません。
 立候補供託金の引き上げという改正措置でありますか、これは選挙制度の理論と、わが国における選挙の実際から見まして、相当問題があるのであります。供託金制度は、一九二五年、大正十四年わが国に初めていわゆる一通選挙法が施行されまして、イギリスの制度にならって新設せられましたもので、当事衆議院議員について二千円ときめられました。立法趣旨は、普選に伴う候補者の乱立を防止しようとするにあったのであります。そうして実際のねらいは、無産政党の進出を抑えることにあり、当初内務事務当局案が一千円であったのを、既成政党側は二千円に引き上げられたと伝えられております。供託金制度は、すぐれた政治的才能の持ち主であっても、供託金を負担する資産的ゆとり、あるいは負担するほどの熱意を持たない候補者を締め出すことになります。それは、従って一面財産による被選挙権の制限となり、他面、その結果間接的に、選挙民の代表者の選択範囲を、選挙に先だって制限するということにもなるのであります。これは選挙権における、財産資格による制限を解除した普選の精神に逆行するものでありまして、選挙法の権威でありました故森口繁治氏などは普選法成立当時からそういう意見で、たとい候補者のある程度の乱立かあっても、候補者の代表者としての適、不適の判定は選挙民の投票が行うであろうとして、供託金制度撤廃の方向に進むべきであると主張したのであります。普選法制定のころに、衆議院議員で選挙法に関心を持っておられました藤沢利吉太郎という方がおられますが、この人も、供託金制度については森口さんと同じように批判的であったのであります。
 供託金制度の上述の性格が理解されましたためか、一九三八年、昭和十三年でありますか、第一次近衛内閣のときに、水野錬太郎総裁は議会制度審議会で一千円に減額する答申を行なっております。次いで、二年後の一九四一年、大政翼賛会は選挙制度改革に関する基本資料を作成いたしました際、賛否両論はあったものの、供託金制度の撤廃をはかっております。旧憲法下でさえ、選挙民の代表者選択権はこのように尊重せられるのか当然であるといたしますと、最初述べましたような意味を持った現憲法下の選挙過程にありましては一そう当然であり、それ以外の態度はあり得ないのであります。従って、各種選挙における供託金の引き上げは、民主国家の選挙法規として原理的にふさわしくない処置といわなければなりません。もっとも、実際の行政上の管理には原理的に不適合な手段でも、制度の有効な運用のためには、できるだけ限定的に用いねばならない場合もあることはあるのであります。しかしながら、供託金制度には、こうした技術的必要は認められないようであります。提案になっております改正案で、町村長の立候補供託金か新設せられ、一万円とされておりますが、供託金か課せられなかった従来の町村長選挙に、今まで泡沫候補か乱立して困ったという事例は一件もないのであり、逆に五五年、昭和三十年四月の町村長選挙では、改選定数千六百六十三名のうち、実に六百十九名が無投票当選なのであります。
 この場合、泡沫候補の乱立ということについて一言しておきますが、供託金制度の趣旨は候補者の乱立を防止するという、乱立に力点があるのでありまして、泡沫候補に力点があるのではありません。ある候補者が泡沫、すなわちあぶくのごとき存在であるかどうかは、結果として国民の判定からそう言える場合もあるだけのことで、当選しなかったから泡沫であるとか、あるいは選挙以前に、あれは泡沫であるとかえるはずのものではないのであります。
 さて、衆議院の場合でも、政党が選挙区の定数以上の候補者を公認することはほとんど考えられません。その上、政党の数も現在では整理せられて、少数になっております。またかりに、いかがわしい侯補者が多く、無所属で立候補するとしまして、無所属候補の得票率、当選数は、五三年四月選挙で全無所属候補のうち四・四%、当選は十名、五五年二月選挙で三・三%、当選は六名、五八年五月選挙で五・九%、十二名であります。無所属候補のこのような成績は、有権者の選択が予想以上にきびしく無所属候補に働いたことを示しております。
 こういうふうに見ていきますと、供託金制度は、理論上はもちろん、実際も存置の理由に乏しいと言えます。この供託金をさらに現行の倍額、さらにそれ以上に引きあげるのは、選挙制度の現在並びに将来の方向に逆行するものといわなければなりません。供託金の引き上げは、この制度の沿革に見られましたように、金持ちの政党が貧乏人の政党に、国民の代表者になる機会をより狭くしようとする党略のにおい持っております。戦前の既成政党の供託金制度などに現われた党略性は、他の事情とも合わさって、国民のより正しき代表者に脱皮していく生命力を既成政党から失わせまして、農民や労働者の要求は、軍部や官僚の一部勢力に代表せられるというゆがんだ現われ方をし、政党はそのファッショ勢力によって解体をしいられる結果をたどったのであります。こうした歴史は、政党の片寄った党略性に重大な教訓をたれるものではないかと思います。
 さらに供託金引き上げによって、立候補に伴う金銭上の危険負担の増加は、そういう金銭的援助を引き受けるという理由で、議員という公職を利権化する憂いが濃いのであります。現在でさえ議員の皆様は、選挙における精神的、物的負担に苦しめられておると存じますが、供託金の引き上げが、議員の公職の利権化を促進することになっては、選挙における政治道徳は腐敗し、それは国政の腐敗につながっていくおそれがあるのであります。
 以上の理由で、供託金の引き上げには賛成いたしがたく、少くとも現状維持のまま漸次逓減、撤廃の方向をとられることが正しい態度であると存ずるのであります。
 最後に、政党その他の政治団体の選挙運動期間における政治活動の規制についての改正であります。その政治活動をする資格を取得する上で、一定数以上の所属候補者を有することが必要とされていましたが、この所属候補者の意義があいまいであったので、これを法律的に厳密に定義し、それに伴って政治活動のできる団体の数も制限していこう、無所属立候補の知事や市長の推薦の場合も、同様に推薦する政党、政治団体を特定、制限して政治活動を認めようというのが改正案の趣旨と見られます。
 結論的に申しまして、選挙運動の規制は、買収とか度はずれた運動とかの悪質事犯以外にはできるだけ簡単に、自由にしていくのが理想的方向であると思います。選挙や政治にしろうとである一般国民にとって、あまり選挙運動の制限規定がわずらわしいと、統治上の重要行事である選挙過程に国民がきわめて消極的に、受け身な態度で参加するという事態が現われてくるのであります。これでは、国民の政治的関心を国会過程に注ぎ込む意味を持つ民主制下の選挙過程のあり方として、おもしろくないのであります。
 わが国における選挙運動の規制の沿革を簡単に概括してみますと、普通選挙制以前の制限選挙制のもとでは、選挙運動はきわめて自由で、戸別訪問も大っぴらに許されていました。一九三五年の普通選挙制とともに、選挙運動の規制が細部にわたってわずらわしくなり、罰則もきびしくなりました。そうして選挙運動の規制のこのきびしさは、当時の各国のそれと比べて、わが国の選挙法の一特質とせられたのであります。これは、旧憲法下における官権主義的選挙制度がこうあらしめたのであります。このとき、今まで自由であった第三者による選挙運動にも制限が設けられ、演説または推薦状による選挙運動のみが認められたのであります。しかも選挙運動の規制は、戦時下に進むにつれて一そうきびしくせられました。このきびしさを選挙粛正運動という半官半民的運動が背後から支持する形をとり、既成政党人ばかりの立候補している選挙には白票を投ずるという、いわゆる白票運動というゆがんだ形の選挙運動までが現われ、この選挙運動の規制の強化という面からも、とうとう既成政党を押しつぶしてしまったのであります。しかしこうした選挙運動の規制の強化という大きな流れの中に、第三者の選挙運動はこれを緩和しようという、反対の小さい流れがあったことは注目すべきであります。すなわち、「出たい人より出したい人を」の傾向がこれであります。これには当時の政治状況から見ていろいろな意味がありますが、少くとも議会人は一般選挙民の政治的要求、希望と結びつかねばならないという一事については、そのときも現在も、同様に正当なことであるということができます。
 戦後になりまして、当初選挙運動の規制はかなあらゆるやかになりました。第三者選挙運動も、政党や推薦団体の政治活動がかなり大幅に認められたのであります。現在の選挙運動は、御承知のように候補者個人主義が建前となっておりまして――これは多少問題があるのですけれども、ここでは論じないとしまして、同じ党派に属していても相戦わねばならないことになっていますから、候補者の所属する政党や推薦団体によって行われる選挙の応援活動は、第三者の政治活動と考えてよいのであります。ところが、一九五〇年、昭和二十五年の公職選挙法は、選挙運動の規制を強化し、その後の改正で、候補者の所属政党や推薦団体による政治活動を制限する傾向を示して今日に至っております。私は、公職選挙法に現われた選挙運動規制強化のこうした傾向も、やや時代逆行の意味があるように思うのであります。現在広く文明諸国家の社会に見られますように、集団的活動が個人の活動を圧して活発であります。このことは統治過程にも現われていまして、わが国でもこのごろ、政党の政策をある程度支配する圧力団体の活動の可否が、学界でも言論界でも、また政界でも問題になっております。圧力団体の活動の最も典型的な現われは、国会過程に直接圧力をかけるロビング、廊下トンビであります。こうした現況を思いますとき、選挙過程において政党初め社会の各種団体が、しかるべき限度で選挙に際して政治活動を行うことは、政党活動、大きくいって統治過程と社会生活の密接な関連をもたらすものであり、その弊害に至っては、廊下トンビその他の方法による国会審議、各種政策への圧力に比べて、はるかに少ないのではないかと思うのであります。さらに、一方部落会とか町内会とか、政治団体でない地域団体が、地方選挙や国会選挙において、かなり地方で有力な候補者推薦母体として働いている現状を考え合せますとき、政党や各種政治団体の選挙活動をことさらに規制の対象にするのは、社会生活の変化の状況に即した措置とは言いがたいのであります。選挙過程は、願わくは社会生活の進歩と変化に即して、その役割をよりよく実現していけるように規制せられるべきであると思うのであります。こうした理由から、選挙運動の制限強化を意味し、選挙における第三者たる集団の選挙運動を、その集団の数において、より制限、特定する本改正事項に反対いたすのであります。
 他の改正点につきましては、事務的な事柄にわたりますので省略いたしたいと思います。
 以上で私の意見は終ります。

太田光征

1982年の国会における選挙制度(差別的な政党要件と参議院拘束名簿式比例代表制)の審議

10月 28th, 2013 Posted by MITSU_OHTA @ 19:25:02
under 選挙制度 , 裁判 No Comments 

第23回参議院選挙無効請求訴訟( http://kaze.fm/wordpress/?p=478 )の第2回口頭弁論が11月21日午後3時30分から東京高裁511号法廷(5階)であります。傍聴をよろしくお願いします。

所在地(東京高等裁判所)
http://www.courts.go.jp/tokyo-h/about/syozai/tokyomain/

被告の答弁書に対する準備書面の作成のために、過去の国会審議を調べています。

以下は、現在の公職選挙法第八十六条の三の差別的な政党要件とほぼ同じ規定と、参議院拘束名簿式比例代表制の導入を盛り込んだ「公職選挙法の一部を改正する法律案(参議院提出、第九十五回国会参法第一号)」の審議の様子の一端です。同案とその審議の不当性が明らかです。

現公職選挙法(参議院比例代表選出議員の選挙における名簿による立候補の届出等)
第八十六条の三  参議院(比例代表選出)議員の選挙においては、次の各号のいずれかに該当する政党その他の政治団体は、当該政党その他の政治団体の名称(一の略称を含む。)及びその所属する者(当該政党その他の政治団体が推薦する者を含む。第九十八条第三項において同じ。)の氏名を記載した文書(以下「参議院名簿」という。)を選挙長に届け出ることにより、その参議院名簿に記載されている者(以下「参議院名簿登載者」という。)を当該選挙における候補者とすることができる。
一  当該政党その他の政治団体に所属する衆議院議員又は参議院議員を五人以上有すること。
二  直近において行われた衆議院議員の総選挙における小選挙区選出議員の選挙若しくは比例代表選出議員の選挙又は参議院議員の通常選挙における比例代表選出議員の選挙若しくは選挙区選出議員の選挙における当該政党その他の政治団体の得票総数が当該選挙における有効投票の総数の百分の二以上であること。
三  当該参議院議員の選挙において候補者(この項の規定による届出をすることにより候補者となる参議院名簿登載者を含む。)を十人以上有すること。

国会会議録検索システム
http://kokkai.ndl.go.jp/

(1)公職選挙法改正に関する特別委員会――公職選挙法の一部を改正する法律案(参議院提出、第九十五回国会参法第一号)、96-参-公職選挙法改正に関する…-12号、昭和57年06月24日

長谷川正安参考人(名古屋大学教授)
「その第一は、二つの法案が規制の対象としている国民の選挙権、被選挙権が日本国憲法が保障する基本的人権であるかどうかという根本的な問題であります。
 結論から申しますと、フランス大革命が高揚した一七九三年六月二十四日に憲法が制定されておりますが、これはもちろん国民主権の憲法でありますが、この憲法には人及び市民の権利の宣言、いわゆる人権宣言というものが付せられておりますが、その人権宣言の第二十九条で選挙権が人権の一つであることが明記されております。そういう二百年前の事実から始まって、今日国際的に認められている国際人権規約、自由権の第一にある自由権規約の中でも選挙権が人権の一つとして認められております。一般的にいえば、参政権とりわけ国民が立法のためにその代理人を選任する選挙権が基本的人権の一つであるということは、私の勉強した限りでは、憲法の歴史から見ましても、また現在の比較憲法的観点から見てもほとんど異論なく承認されていると思われます。」
「選挙権の本質が公の務め、公務であるとかあるいは公の義務であるというのは、人権思想に対立する戦前の国家主義的な思想が強かった時代の法律論の名残りでしかありません。国民主権に基づく憲法の歴史では、選挙権は主権的な人権であるとして、自由権や社会権に比べてさえより重要なものとして認める憲法学者もいるくらいです。
 このように考えますと、今回の公職選挙法の改正は、憲法の改正、特に人権規定の改正にも当たる重大な意味を持っている問題を私たちはいまここで討議しているのだと思います。」

(2)公職選挙法改正に関する調査特別委員会公聴会――公職選挙法の一部を改正する法律案(参議院提出、第九十五回国会参法第一号)、96 - 衆 - 公職選挙法改正に関する… - 1号、昭和57年08月07日

西平重喜公述人(統計数理研究所附属統計技術員養成所長)
「なお、ちょっとつけ加えますと、小党分立ということが政局の混乱をもたらすというようなことが言われることがあります。そういう場合に第一次大戦後のワイマール憲法下のドイツの例がよく引き合いに出されるのであります。しかしながら、それは小党分裂のゆえにヒットラーの登場を促したということではございませんで、むしろ大きい政党、中くらいの政党というような政党の間の混乱がそれをもたらしたのであります。さらにまた、あべこべに二大政党制と言われているイギリス、カナダ、オーストラリアというような国を見ますと、そういうようなところでは議会の解散が頻々と行われておりまして、決して政党の数が少なければ政局が安定するというものではございません。」

松本道廣公述人(日本医療労働組合協議会議長)
「 それは、七月十六日の参議院本会議の強行採決、それに先立ちます七月九日の参議院特別委員会における自民党さんのいわゆる単独強行採決、これは前例のないものだというふうに言われておりますし、国会史上汚点を残すと言われておりますが、私はそのとおりであろうというふうに思っております。
 特に、七月九日の委員会での三点の乱暴な審議の方法というのは、私は許されるべきものではないんではないかというふうに思っております。
 その一つは、委員会開催定数に達していない状態で強行に採決をされているということでございます。
 二つは、身体障害を持つ前島議員が入室できない状態で、そういう状態が明白にあるにもかかわらず質疑の権利を放棄さすような、そういうふうな運営をなされているということであります。」
「それを代表していまの内容を申し上げますと、もちろん政治の問題、平和の問題民主主義の問題、憲法の問題、それについての関心は高い組織だというふうに自負はいたしておりますが、しかし、今回のような問題について、事柄の実態、本質をいま職場の末端までが理解しているだろうかという点では、これは大きな疑問があると思います。その意味からも、国民の立場からも十分に事柄の本質や経過が明らかになるように御審議も願いたいし、政党としても努力をお願いしたいというふうに思います。」

(3)討論――公職選挙法の一部を改正する法律案(参議院提出、第九十五回国会参法第一号)、公職選挙法改正に関する… - 12号、昭和57年08月17日

小杉隆(新自由クラブ・民主連合)
「 その第一は、政党要件が厳し過ぎることであります。すなわち、立候補者名簿を提出することができる政党の要件として、衆参合わせて五人以上の議員がいること、直近の国政選挙で有効投票の四%以上の得票を得たこと、比例代表区選挙、選挙区選挙合わせて十人以上の候補者を有することのいずれか一つに該当することとしておりますが、これは小会派、無所属の締め出しと言うほかありません。政党本位の比例代表制を採用している西欧各国では、一人一党を認めるなど、政党要件は緩やかであります。個人立候補を認めると政党と個人が混在し不都合だと言うならば、できるだけ緩和して実質的に無所属や少数党が立候補し得る道を残すべきであります。
 本来、少数意見を反映させやすいというのが比例代表制の特色であります。その特色を政党要件を厳しくすることでなくしてしまうことは、今回の改正案の意義も半減することに通じるものであります。」

太田光征

メディアは「身切り論」(国会議員定数の削減)から決別を

10月 17th, 2013 Posted by MITSU_OHTA @ 11:54:43
under メディア , 選挙制度 [3] Comments 

メディアは「身切り論」(国会議員定数の削減)から決別を

2013年10月17日

朝日新聞御中
毎日新聞御中

 朝日新聞は10月2日、毎日新聞は10月3日に、消費税増税との引き替えで国会議員定数を削減すべきという「身を切る改革」を主張しました。

「身を切る改革」どこへ 定数削減進まず 消費増税決定
http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201310010676.html
選挙制度改革:3党実務協議で民主譲歩 増税控え合意急ぐ
http://mainichi.jp/select/news/20131004k0000m010087000c.html

 毎日新聞は「国民に負担増を求める消費税率8%への引き上げを来春に控え、国会議員の『身を切る改革』は急務」と言いきり、朝日新聞はそこまで直接的ではないものの、「身を切る改革」を政党に迫っていることが明らかです。

 なぜメディアが「身を切る改革」にこだわるのか、<何の>改革を主張しているのか、分かりません。国会議員(というより政党)には身切りを迫りながら、メディアは消費税増税の対象から外してもらいたいというのだから、なおさらです。メディアは民主主義に欠かせないからと主張されたいなら、国会議員は何だというのでしょうか。メディアの皆さまは相当の高給取りという点でも、国会議員と変わりません。

 「身切り論」、とりわけ消費税増税との抱き合わせでの「身切り論」には大きな問題があります。当団体でも再三にわたって政党などにこの問題を訴えてきました。

民意を生かす政治・公正な報道を求める要望書(実行委員会による)
http://kaze.fm/wordpress/?p=469
選挙権関連の格差は「定数配分の格差」だけではありません〜「0増5減」は無所属候補に対する差別を拡大する〜
http://kaze.fm/wordpress/?p=468
「国民負担と引き替えの国会議員定数削減」「有権者の権利を縛るネット選挙法案」で各党議員に要望
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 朝日新聞は(消費税増税を前提に)「そもそも定数削減は、与野党のトップが自ら言い出した約束だった」と述べていますが、民意の支持を得ていない消費税増税を前提とする定数削減という約束も筋違いなら、「与野党のトップ」だけの勝手な約束に国民が縛られるのも筋違いというものです。

 オスプレイの押し付け、原発政策の維持という押し付け、生活保護費の切り下げという押し付けなど、政府が国民に強いる「国民負担」は数多くありながら、なぜか消費税増税という「国民負担」だけに限って身切り論が持ち出されます。

 消費税増税という国民負担と引き替えで国会議員が身を切るべきだ主張したいのなら、政党助成金の廃止や議員活動費に回される分以外の生活費としての議員歳費の減額などを主張すべきでしょう。毎年、引退議員が出るのであり、新人議員の立候補者数を減らせば現役議員の椅子が減ることはないのだから、定数を減らしたところで議員が身を切ることなどできないのです。

 何より問題なのは、定数削減が、国民の身を切ること、民意を削ぐこと、国民主権を切り縮めること――そのものだということです。定数削減により民意を削ぐことで、民意を無視した政治が行われ、国民に不利益な施策が押し付けられる可能性が考慮されていません。言い換えれば、民主主義の効用というものが無視されているに等しいのです。

 あたかも定数削減が国民にとって有益であるかのごとくメディアが主張することは、まったく考えられません。

 身切り論から決別されるとともに、以前からお願いしていますように、上記要望書を基にした懇談の機会を設けていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

「平和への結集」をめざす市民の風
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「護憲結集をめざす 円卓会議パート?」を開催します

10月 13th, 2013 Posted by MITSU_OHTA @ 11:13:05
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  11/24(日曜日)に下記の要領で「護憲結集をめざす 円卓会議パート?」を開催しますので、ご案内申しあげます。公募実行委員の皆様には7/8/9月末に3度にわたりお集まり頂きありがとうございました。

 6/30のパート?で、私は「全国で活動する万を越える護憲団体の中で、参院選前には10指にも達しなかった“護憲政党などの結集”を掲げた集会を、今後せめて100には増やしたい」と挨拶しました。 以後東京・長野・愛知・京都などの人達と連絡を取るなかで、 長野で共同候補擁立が難航し、兵庫の様子を見ようと4月の「護憲結集をめざす神戸集会」に参加された竹内さん、 愛知で政党の連携を呼び掛ける市民の会結成を準備され、4月の神戸集会のレジメ・資料の送付依頼のあった池住さんらと、 メールや電話でお話しする機会がありました。

 

 MLでの投稿やインターネットを見る中で、池住さんは2008年名古屋高裁で違憲判決を勝ち取った「自衛隊イラク派兵差し止め訴訟の会」の代表であり、多岐にわたる市民活動を続けられ、そんな多忙な中での共同を求める「市民の会(愛知)」代表となり、きちっとした体制をつくり、計画的・実践的取り組みをされていること、兵庫では断られた共産党の代表も名古屋での集会には参加されていること、などを知り驚きました。

 4月神戸集会では直接会えなかった竹内さんに、長野の様子を聞きたくて何度も電話をしましたがなかなか通じません。夜10時過ぎ、やっと通じた竹内さんの声が若いこと、大学生かと思ったら現職の高校教員で生徒との面談等で深夜帰宅が多いこと、この日は急遽立候補した友人の選挙事務所での作業中で背後のざわめきの中で受話器からの声が明るかったこと、に驚きました。

 兵庫での3度にわたる実行委での論点は、円卓会議(神戸)の「今後」として、4月集会でめざした護憲(派)結集のためのネットワークづくりの継承か、安倍政権の仕掛けてくる集団的自衛権問題・機密保護問題等への反撃の中から護憲(派)結集を生み出すか、にあったと理解しています。10月4回目の実行委の声もありましたが、呼び掛け人の私の方から特に要請し11/24神戸円卓会議の開催を決めさせて頂きました。

 

 共同候補を当選させることが出来た沖縄を除き、他で候補擁立にまで到達できた選挙区さえありませんでした。 この現実を見すえ、愛知・長野・兵庫での多様な経験を振り返る中から「今後」への道筋をともに見極めたいと願っています。 『愛知・長野・兵庫の経験から「明日」をさぐる』 この集会には、ぜひ、ご参加ください。

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とめよう壊憲! 護憲結集をめざす   神戸円卓会議 パート?

   〜〜愛知・長野・兵庫の経験から「明日」をさぐる〜〜

 2016年の参院選まで国政選挙がなく、衆参両院とも絶対多数の与党を背景に、戦後の日本国憲法体制をぶちこわそうとする安倍政権の驕り、たかぶりが横行しています。彼らのいう「黄金の3年間」を、「左派」「リベラル」がともに手をつなぎ壊憲をとめるという、戦後60年間なしえなかった「連携」を実現する3年間に、どうしても変えなければなりません。

 護憲政党などの連携は観客席で待つのではなく、護憲結集を求める市民活動を創り、広げることが必要です。しかし全国で万をこえる護憲団体があるなか、参院選前に「護憲政党などの結集」を掲げ開催された集いは、インターネットで見る限りでは東京・神奈川・長野・愛知・兵庫などの10指にも達しませんでした。

 共同候補を当選させることが出来た沖縄を除き、他で候補擁立にまで到達できた選挙区さえありませんでした。この現実を見すえ、愛知・長野・兵庫での多様な経験を振り返る中から、「今後」への道筋をともに見極めたいと願っています。ぜひ、ご参加ください。

□と き 11月24日(日)13:30〜16:30

□ところ 兵庫勤労市民センター第3会議室(JR兵庫駅北3分)

□プログラム 開会あいさつ/パネルディスカッション

           /フロアからの意見・質疑

■パネリスト 

池住義憲 「政治を考える市民の会」共同代表(愛知)

竹内 忍 「素敵な憲法に乾杯!市民パーティ」世話人(長野)

佐藤三郎 「とめよう壊憲! 護憲結集!」実行委員会代表(兵庫)

コーディネーター 松本 誠 「市民まちづくり研究所」「政策提言市民団体・市民自治あかし」代表

〔パネリスト紹介〕

❒池住義憲 :1944年東京都生まれ。2004年自衛隊イラク派兵差し止め訴訟の会(名古屋)代表。4年2ヶ月全国の仲間と共に闘い、2008年名古屋高裁で違憲判決をかちとる。名古屋を中心に、平和やいのち、保健衛生、住民参加型のまちづくりなど多岐にわたって活動し、2013年5月<7月参院選とその後の国政選挙に向けて>「脱原発」「憲法改悪を許さない」の二点で、政党などへの連携を呼びかけ「政治を考える市民の会(愛知)」を結成した。立教大学特任教授。  

❒竹内  忍 :1958年松本生まれ。東京での学生生活後、地元に戻り20年間予備校講師をやりながらの市民活動。「地球が教室」をコンセプトにした新たなスタイルの通信制高校の設立に関わり、2003年開校とともに教員となる。「いのち」「環境」「社会参画」等のオリジナル科目を担当、毎年半月間中国(旧満州)への研修旅行や「3・11」後フクシマでの授業等を実施。今回の参議院選挙では政治団体「市民パーティ」を立ち上げ、知人の女性の立候補を後押してきた。

❒佐藤三郎 :1932年神戸市生まれ、1960年安保の翌年サラリーマンをやめ、高校教員に。定年直前に地元連合自治会の役員となり,1995年の阪神・淡路大震災後は神戸市の大型都市計画事業に遭遇、2005年の役員辞任まで復興まちづくり活動に従事。2006年第一次安倍内閣による教育基本法改悪の動きを見て元教職員ひょうごネットを結成、憲法・教育問題等の集会開催、ニュース・市民活動掲示板の発行等を続け、2013年4/14、6/30に「護憲結集」集会を開催。

  〔主催〕 2013/11/24「護憲円卓」討論集会 実行委員会

〈連絡先〉メール minami2satou@kxa.biglobe.ne.jp Tel&Fax 078-733-3560(佐藤)

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以上、転載

以下、追記(2013年11月23日)

「とめよう壊憲! 護憲結集をめざす!円卓会議(神戸)等論集会」 実行委代表の佐藤三郎です。
? 11/24開催の円卓会議(13時30分〜兵庫勤労市民センター)が近づいてきました。時間のご都合がつく方は、ご出席頂ければうれしいです。
? 差し支えのお有りの方は、配信チャンネル「IWJ兵庫1」
「http://www.ustream.tv/channel/iwj-hyogo1」 で、集会の様子が配信されますので見て下さい。
? 本日、集会配付の資料が揃いました。愛知の池住さんからは、緻密で組織的・計画的取組の様子が伝わる8頁の資料が、長野の竹内さんからは、政党との協議の様子、それが不調に終わった後の思い切った取組がさわやかに伝わる8頁の資料が届きました。率直で建設的な話し合いが出来る事を楽しみにしております。
? 参加できない方で「資料を見たい」と希望される方は、ご連絡下さい。E-メール minami2satou@kxa.biglobe.ne.jp までどうぞ。

佐藤 三郎

太田光征