日本と諸外国ではこんなにも選挙制度・行政システムが違うのか! 「目からウロコ」のお話

11月 29th, 2007 Posted by MITSU_OHTA @ 15:01:55
under 一般 [7] Comments 

2007年11月23日に、「開かれた議会をめざす会」主催シンポジウム「『議会基本条例』を考える!!−そのあり方と活用の仕方について−」で、友人の田口房雄さんが選挙制度の話題を提供しました。その様子を収めたビデオです。

YouTube版もあります:
その1
http://www.youtube.com/watch?v=aesyyJXAjRM
その2
http://www.youtube.com/watch?v=zPY8rEwFC-g
その3
http://www.youtube.com/watch?v=Gz-pYvFEuRs

ヨーロッパでは国政選挙も自治体選挙も比例代表制を採用しているところが多い。首長選挙は行わず、議会選挙で選出された議員の中から執行委員会や参事会を構成して行政にあたる。その結果、行政権が与党系の首長に独占されない。

スウェーデンでは、各党が選挙の1年前から比例区候補者名簿を作成し、有権者の意見を聞く。投票の際、有権者は、その名簿が気に食わなければ、政党内・政党間での候補者の入れ替え、順位変更ができる。

アメリカのバークレー市議会では、「パブリック・コメント」として、小学生でも毎週1回、議会で発言できる。委員会は「平和と正義委員会」「警察監視委員会」を含め42もあり、市議は市民を委員に推薦できる・・・。

日本と諸外国ではこんなにも選挙制度・行政システムが違うのか! 「目からウロコ」のお話を聞くことができます。

田口さんの資料は、私が管理している彼の公式サイト(http://fusao.jp/)に順次アップする予定です。

太田光征

中選挙区比例代表併用制を提案する
http://kaze.fm/wordpress/?p=164
http://otasa.net/

中選挙区比例代表併用制を提案する(後半部分)

11月 14th, 2007 Posted by MITSU_OHTA @ 14:02:00
under 選挙制度 [2] Comments 

 トラックバックの送信などをすると、中選挙区比例代表併用制を提案するの後半部分が切れて保存されてしまうことがあるので、【解説】以降を転載しておきます。

【解説】

(1) 二種類の一票の格差を解消する

 区割り選挙を独立して行う結果生じる一票の格差には、二種類あります。一つは、選挙区ごとに定数当たりの有権者数あるいは投票者数が異なることで生じる格差です。選挙区別の有権者間格差といえます。一票の格差という場合、どういうわけか、普通はこちらのみを指します。具体例についてはこちらを参照してください。

  一票の格差は比例代表制で解消するしかない
  http://kaze.fm/wordpress/?p=142

 もう一つは、政党の得票率と議席獲得率に乖離が生じる格差です。野党が票数の上では与党に勝っても、議席数で負けるなどの事態が発生します。政党別の有権者間格差と呼べます。

 政党所属の国会議員が国会の採決でどう振る舞うかは、選挙時の得票数の多寡ではなく、党が決めた方針に大きく左右されます。国会政治がこうした政党政治である現実を考慮すれば、政党別の有権者間格差は非常に不合理といえます。

 これらの格差を生じさせない選挙制度が必要です。また、政党候補と無所属候補の間の格差についても、留意しなければなりません。

(2) なぜ中選挙区制と比例代表制の<並立>制ではなく<併用>制か

 区割り選挙を独立して行えば、二種類の一票の格差は避けられません。政党候補に限れば、これらの格差をなくす最も合理的な制度は、全国一区の比例代表制でしょう。しかし比例代表制を採用する場合は、政党と無所属の間の公平性を確保しなければなりません。

 比例代表制では、政党が複数の候補者を立てて一人を当選させるパターンが可能ですが、無所属にはそれができません。定数が大きすぎる選挙区選挙では逆に、一部の政党候補者に票の集中現象が起きることで、無所属に有利となる場合があり得ます。

 したがって、比例代表制とともに、適切な規模の区割り選挙を併用するのが合理的です。そこで、無所属でも当選可能な中選挙区に区割りして、総定数をすべて中選挙区に割り振り、すべての候補者に中選挙区制と比例代表制を適用します。こうして政党と無所属が同じ総定数をめぐって競う制度が、最も公平であるといえます。

 日本の現在の制度は選挙区比例代表<並立>制です。この制度は、総定数を二つに分けて、それぞれに選挙区制と比例代表制という異なる制度を適用しているにすぎません。これに対して、ドイツの下院などが採用している小選挙区比例代表<併用>制は、比例代表制の中に小選挙区制を組み込んだもので、小選挙区の候補者に対して、小選挙区制と比例代表制を同時に適用します。比例代表制で政党への議席配分数を決定し、小選挙区の当選者を優先的に当選させる制度です。

 中選挙区比例代表併用制は、ドイツの制度における小選挙区を中選挙区に置き換えただけの制度ではありません。選挙区と比例区の関係が逆転している点で、両制度は大きく異なります。

 中選挙区比例代表併用制では、総定数をすべて中選挙区に割り振り、政党候補と無所属候補が同じ総定数をめぐって争います。選挙区における無所属の当選者数に応じて、主に政党に対する比例区の議席割り当て数が変動します。そのため、選挙区にも比例区にも、従来の意味での定数は存在しません。選挙区の定数は、実際上、無所属の当選上限枠を意味します。

 これに対して、ドイツの制度では、比例区定数が総定数であり、比例区定数の中に小選挙区定数の全部または一部が組み込まれています。実際は比例区定数が598で、半数の299が小選挙区定数になっています。小選挙区の当選者が比例区での議席配分数を上回る場合は、「超過議席」として認められます。このため、総当選者数が総定数を上回ることがあります。

 比例区選挙は無所属に不利なので、ドイツの制度における比例区は、政党優先枠の性格が強いといえます。日本の並立制における比例区は、完全な政党独占枠になっています。ところが中選挙区比例代表併用制では、政党優先枠が存在しません。

 同併用制では、同じ総定数をめぐって政党候補と無所属候補が中選挙区で競い合います。したがって原理的には、無所属が全議席を独占することも可能です。政党と無所属に議席配分をめぐる公平な土俵を設定しているわけです。

 小選挙区制では、第二位以下がすべて切り捨てられるので、特に無所属については民意を反映する制度とはいえません。中選挙区以上にすることで、低順位の無所属も当選可能となります。

 全国一区の比例区を設けることで原則的な平等性を、総定数を中選挙区に割り振ることで実際的な公平性を担保するのが、中選挙区比例代表併用制といえます。

(3) 中選挙区選挙の位置づけ

 無所属候補は比例区での当選が困難なので、選挙区で当選しただけでも当選を確定させます。ただし、選挙区で無所属が落選しても、比例区で当選することが原理的にはあり得るので、無所属も比例区で立候補することにしています。政党候補も選挙区で無所属と戦いますが、選挙区における政党候補の得票実績は、候補者個人の当落に直接的には関係しません。

 全政党に対する議席割り当て数は、総定数から無所属の総当選者数を差し引いた数としています。無所属の総当選者数には、比例区での当選者数も原理的には含まれますが、わずかであると思われます。

 したがって、中選挙区比例代表併用制における選挙区選挙は、無所属の選出と、全政党への議席割り当て数を概略決定するための選挙と位置づけられます。

 無所属で当選後、政党に鞍がえするケースが頻出すれば、比例代表制ではなくなります。そのような鞍がえは認めないことが必要でしょう。

(4) 選挙区定数と総定数は開票後に確定する――無所属候補に関する格差を防止するための措置

 政党候補に関しては、比例代表制を採用することで二種類の格差が解消されます。しかし、中選挙区に区割りしているため、無所属候補については、選挙区別の有権者間格差が生じ得ます。そこで、選挙区の開票前の定数は、その選挙区の有権者数に比例した仮定数とし、本定数は開票後に確定させます。

 具体的には、投票者数当たりの仮定数が一番多い選挙区を基準に、仮定数の少ない選挙区の定数を、投票者数に比例して増やします。これに伴い、総定数が確定します。

 (2)で指摘したように、選挙区の定数は、実際上、無所属の当選上限枠を意味します。

(5) 比例区選挙の方法

 政党候補と無所属候補はすべて全国一区の比例区にも立候補します。政党の候補者名簿は非拘束式です。各政党または無所属候補への議席配分数は、各政党または無所属候補が比例区で獲得した票の合計を基に、ヘア・ニーマイヤー式などで決定します。政党内当選順位は、各候補の比例区得票数が多い順とします。地域代表の性格を強めたいのであれば、全国一区ではなく、ブロック制にするのがよいでしょう。

(6) 比例区選挙における政党内当選順位の決定方法

 選挙区の政党候補は、無所属候補と競う必要があり、選挙区選挙の運動を軽視できません。全国一区の比例区選挙のために、他選挙区での運動に比重を割けないという意味です。

 比例区得票数を政党内当選順位の決定に利用する場合、候補者にとって選挙区別の格差が生じ得ます。各候補の比例区得票数は、選挙区の投票者数に影響を受けると考えられ、投票者数は選挙区によって異なるからです。また、全国一区の比例区にだけ立候補できる政党候補を認めても、比例区得票数の点で、選挙区候補との間に不平等が生じる可能性があります。

 そこで、政党候補は選挙区のみから立候補し、選挙運動も選挙区内に限定すべきという考え方ができます。この場合、比例区選挙では政党名で投票し、政党内当選順位は、選挙区での得票実績に基づいて決定することになります。

 ところが、現在の並立制で全国一区の比例区から立候補する候補でも、実際は選挙運動地盤が限定されています。したがって、選挙区から立候補する政党候補に関しても、全国一区の比例区得票数を基準に政党内当選順位を決定することは、不合理とはいえないでしょう。この場合、有権者は全国の政党候補者の中から選択できるので、選択権が拡大するというメリットが生じます。

 以上の理由から、中選挙区比例代表併用制における政党内当選順位の決定は、比例区得票数に基づくことにしています。

 以下は、参考までに、政党候補の当選順位を選挙区の得票実績で決定する方法です。

 選挙区での得票実績としては、得票率が考えられます。しかし、候補者が乱立した場合など、第一位候補でも当選できないことが起こり得ます。また、例えば、A選挙区で第一位候補の得票率が40%、第二位候補の得票率が30%、B選挙区で第一位候補の得票率が50%、第二位候補の得票率が30%とします。同じ得票率30%でも、A選挙区の第二位候補は、第一位候補との差がB選挙区の場合より小さく、得票実績が高いと評価するのが妥当です。

 したがって、単純な得票率に基づく当選順位の決定は不適切と考えられます。政党候補の得票実績としては、第二位以下の候補の場合、第一位候補を基準にした得票数の比を採用するのが妥当でしょう。第一位候補については、第二位候補を基準にした比を用います。

(7) 政党・無所属別の格差

 政党候補については、政策的統一性が認められるため、比例代表制で各党に議席配分する方法が合理的です。政党候補に関する格差は、この方式で解消されます。しかし、政党候補に投票した有権者と無所属候補に投票した有権者の間でも、一票の格差が生じ得ます。無所属候補の死票が政党候補に比べて多い場合、何らかの手当てを考慮しなくてよいのか、という問題があるからです。

 無所属全体を仮想党派とみなして、議席数を政党と同様に比例配分することも形式的には考えられます。しかし、無所属については政策上の一致点でくくることが困難なため、合理性を欠きます。

 例えば、無所属を与党系と野党系に分けて考えます。与党系については、個々の得票実績は高いが総得票数は少なく、野党系については、個々の得票実績は低いが総得票数が多いとします。このような場合、比例配分することで、むしろ政策上の民意が損なわれる結果になるでしょう。

 このように、無所属全体を一つの党派とみなして比例代表制を適用することには、無理があります。そこで代替措置として、無所属に投じられた死票を、政策の近い政党に譲ることが考えられます。(逆に政党から票を減らすという発想もできます。)

 実際、有権者は同じ総定数の枠内で選挙区票と比例区票を持ち、かつ比例区で第二希望の投票もできることから、それが可能になっています。選挙区または比例区の第一希望で無所属に投じた票が死票になったとします。この場合、比例区での第一希望または第二希望の投票先が、死票の委譲先になり得ます。現在の並立制では、選挙区の定数と比例区の定数が分離しているため、比例区の投票に死票委譲の意味合いはありません。選挙区の死票は死票のままです。

 過去3回の参院選を振り返ってみます。2007年参院選では、実質的な民主・社民統一型の無所属候補が各地で当選しました。その結果、選挙区では、政党全体においても、無所属全体においても、それぞれ得票率と議席獲得率がほぼ一致しています。ところが、2001年、2004年参院選の場合、無所属は得票率よりも低い議席獲得率を記録しています。下記は得票数/基数でみた結果です。
 
 

2007年参院選(選挙区)――政党・無所属別一票の格差
  得票数 得票数/基数 * 当選者数
政党 54,252,460 66.73 66
無所属 5,095,168 6.26 7

2004年参院選(選挙区)――政党・無所属別一票の格差
  得票数 得票数/基数 * 当選者数
政党 50,412,346 65.5 68
無所属 5,696,505 7.4 5

2001年参院選(選挙区)――政党・無所属別一票の格差
  得票数 得票数/基数 * 当選者数
政党 48,679,572 65.3 70
無所属 5,658,911 7.6 3

* 基数:(政党全体と無所属全体の総得票数)/ 定数(73)
 
 
 現在の小選挙区主体から中選挙区に変更し、無所属がより多く当選できるようにすることで、無所属の得票率と議席獲得率の乖離は縮小すると予想されます。

 中選挙区比例代表併用制では、その基本的構成で、政党・無所属別の格差がかなり解消されるものと期待できます。

(8) 無所属候補を政党と見なすだけの比例代表制は比例代表制とはいえない――無所属候補に対する余剰票の処理

 (7)では無所属候補に対する死票を考えましたが、逆のケースも問題になります。例えば、野党系の無所属候補Aが、野党系候補数人分の得票数を1人で稼いで当選した結果、与党の(仮)当選者数を増やしてしまったケースなどです。

 もしも単純中選挙区制や単純大選挙区制、単純比例代表制の場合、「野党系無所属党A」は、このケースでもたった1人しか当選者を出せません。これは、与党に不当に有利であるといえるでしょう。

 中選挙区比例代表併用制であればどうか。選挙区選挙または比例区第1希望投票で無所属候補Aに投じた有権者が、比例区第2希望投票で政党(野党)に投票したとします。

 無所属候補Aが獲得した、本人の当選に寄与しない余剰票を、比例区第2希望投票先の政党に(比例)配分します。無所属候補に投じられた余剰票を政党に委譲する形で比例代表制に組み込むわけです。

 このように、無所属候補を政党と見なしても、候補者が1人であることに変わりはなく、無所属候補に単純比例代表制を適用しても、比例代表制が期する民意の反映は実現できません。また解説(7)で指摘したように、比例区における無所属候補の死票を生かす措置も必要です。

 無所属候補に比例代表制を適用する場合、中選挙区制と併用しなくとも、比例区第2希望投票などが最低限必要でしょう。

 
 
太田光征
http://otasa.net/

戦死した兵士を愚弄する日本

11月 5th, 2007 Posted by takao ishii @ 5:21:49
under 一般 [3] Comments 
一、
 62年前、日本は310万人もの戦争犠牲者をだして無条件降伏する
ほどの完膚なき敗北を喫し、生き残った日本人も辛酸を舐めつくす事
態を経験しました。戦死した230万以上もの兵士達のほとんどが、
自己の家族の安寧を守るために出征し死にました。
  しかし、兵士達の願いとは逆に、彼らの家族の頭上に焼夷弾や爆弾、
原爆まで落とされてしまいました。家族の安寧を守るどころか、むし
ろ逆に戦死した兵士自身が加担した戦争により、家族を未曾有の危機
に陥れてしまったのです。更に自らは遠い異国で戦死したために家族
を助ける事も出来なかったのです。
 さぞかし無念な死だったでしょう。戦死した兵士達は家族を守るつ
もりで戦ったのに、逆に家族を生死の危機に陥らさせてしまったの
ですから、これが「無駄死」でなくて何が「無駄死」だと言うのでしょ
うか。兵は「無駄死」、「犬死」を強いられたのです。死んでも死に切
れない無残な死を強いられたのです。
 兵士だけでなく、一般の民衆も含めて310万人もの膨大な犠牲者
を出してしまった戦争は、日本の歴史上他に例がありません。  しか
し、政治家やマスメディアは、毎年8月に「戦争犠牲者達の死が戦後
の日本の発展の礎になった」などと唱えます。この「礎説」は一見
戦争犠牲者に報いる言葉のようですが、その意味を冷静に考えれ
ば「彼らが死んでくれたから、戦後日本は急速な発展をした」、「彼ら
が生きていたら、日本は発展しなかった」と言っているのであり、戦争
犠牲者達を愚弄する言葉です。  もし、先の大戦で犠牲となった310
万人もの日本人が死なずに生きていれば、戦後の日本は現在よりも
遥かに発展したのは間違いありません。そもそも、310万もの日本人
が死んだら、たとえ戦争に勝ったとしても何の意味もないのです。
  戦争で明治憲法体制が自滅し、日本人自らの力で民主主義を獲得
しなかったために、民主革命が中途半端なものとなり、今でも毎日90
人もの人々が自殺し、戦後の61年間で150万人以上も自殺者を出し
た冷たい社会が続いているのですから、この「礎説」は明白な虚言です。
 なぜ、このようなウソを政治家やマスメディアは、毎年呪文のように
唱えるのでしょうか。
 この「礎説」を、政治家やマスメディアが毎年呪文のように唱える
本当の理由は、犠牲者の死が何の価値もない「無駄死」、「犬死」
だったとすると、彼らを特攻までさせて「無駄死」させたのに自らは
生き残った政治家や軍人、マスメディアに巣くう戦争責任者達が、
生き残った「後ろめたさ」を解消できないからです。
  更に、犠牲者の死が何の価値もない「犬死」ではなく有意義な死、
価値のある死だったのだから迷わず成仏してくれ、生き残った戦争
責任者を恨まないでくれという呪文なのです。また、有意義な死だ
とすると、犠牲者の遺族も少しは慰められ、遺族の戦争責任者へ
の憎悪も減ると姑息な計算をして産み出された呪文です。  要する
に、狡猾に戦後の社会を生き伸びた戦争扇動人達が、戦後の日本
が「素早く」復興したことを根拠に、未曾有の大敗北を喫した戦争を
無残な悲劇としてでなく、終わりよければ全てよしとばかりに、
ハッピ−エンドの物語に偽装するために考え出した言辞です。
 しかし、負け戦での戦死を価値化しようとしても土台無理な話です。
日本の支配層は、治安維持法で自由な言論を統制し、鬼畜米英な
どと国民の恐怖心をあおり、国民をだまして無謀な戦争を始めたの
に、卑劣にも皇族東久邇宮は、一億総懺悔などと言い出して戦争
責任を国民全体に転嫁し、天皇をはじめとする戦争指導者達の
戦争責任を隠蔽しようとしました。  この「礎説」は、生き残った戦争
扇動者が考え出し、マスメディアの同類が広めた解釈で、戦争責任
者を救済するための虚構です。
 政府や軍、マスメディアに巣くい、戦争の大義を捏造して国民を騙
した昭和天皇を含む無脳な戦争指導者も兵士を「犬死」させたA級
戦犯です。不本意であれ、最終的には最高責任者として戦争を
承認したのですから、昭和天皇には逃れがたい戦争責任がある
ことは、本人も認めているように間違いありません。
 戦争指導者達は、日本の国力を過大視して日本を帝国主義的な
植民地争奪戦に参加させ、挙句の果てに狡猾なアメリカのワナに自
らはまり、戦争か「全面降伏」かと恫喝される状況に自ら陥りました。
戦争責任者達は、長年国民に対して大言壮語をしてきたので、また
植民地争奪戦のために多くの犠牲を国民に強いてきた手前、「全面
降伏」を選択して植民地争奪戦の「成果」を手放すと天皇制そのも
のの危機に陥りかねないので、結局あのような無謀な戦争を選択
するしかなかったのです。まさに、天皇制という国体護持のために
戦争を始めざるを得なかったのです。
 民間人にさえも無謀な戦争だとわかっていた人がいました。第一
次大戦の経験から総力戦になることもわかっていたはずです。
しかし、天皇制を維持するために、極めて甘い予測で戦争を始め
て、日本を戦争加害者の立場、「悪」の立場に貶めたのです。先の
大戦は単に「止むを得ない戦争だった」のではなく、天皇制を守る
ために「止むを得ない戦争だった」のです。戦争を唱導した天皇、
その他全ての政治家や高級官僚、指導的軍人は、皆日本人自身
の手で断罪されるべきでした。
 二、
 「イジメ」で自殺した学童は、自殺しなければならなかった
苦悩を関係者に理解して欲しいはずです。誰でも「イジメ」ら
れたら、自分と同じように苦しむと思える人は自殺はしませ
ん。自分だけが特別に弱い存在で、そのような弱い自分は
生きる価値がないと自分自身に絶望して、極限の自虐心理
に押しつぶされ自殺するのです。ここに彼らの本当の悲惨・悲劇
があります。ですから、彼らが体験したこの悲惨な心理まで理解
しなければ、彼らを本当に供養したことにはならないでしょう。
 「イジメ」で自殺した学童の死を、生き残った関係者が、その死
によって「イジメ」が減ったことを根拠に、「イジメ」が減らすために
貢献したと死を価値化して解釈しても、それは生き残った関係者
にとっての死の解釈です。同様に「礎論」も、これと同じ生き残っ
た人による解釈ですが、生き残った私達に都合が良すぎるこじ
付け解釈です。戦争犠牲者達が死んでも死に切れない死を、
「犬死」を強いられたことをに彼らの真の実相があり、悲しみが
あります。ですから、「イジメ」で自殺した人と同じように、この彼
らの悲しみを直視し、彼らの無残な死と悲しみに思いをはせる
ことこそが真の戦争犠牲者達への供養です。
 戦死ならまだ良い死に方でした。日本の戦死者には、異常な
ほど餓死で死んだ兵が多いのです。信じ難いことに、軍事物資
や食料の補給を重視するという初歩的な軍事知識さえない無能
な軍首脳達が、一番大切なこの補給を無視したため、兵士達は
派兵先の現地住民から食料を強制徴発せざるを得ず、強盗・
盗賊と見なされて殺されたり、極限的飢餓状態で、死んだ仲間の
日本兵の死体さえ食べて生き延びらざるを得ない状況に陥った
兵士もいたのです。 
 餓死した兵士達が、子孫の私達も戦場で餓死することを望む
はずがありません。仲間の死体を食べなければならないような
悲劇が再現されることを望むはずがないのです。彼らが望む
ことは、自分と同じような無残な死に方を、子孫の私達が再び
しないことであるはずです。ですから、彼らはどのように死んだのか
真実を知ってもらいたいのだと思います。どんなに悲惨な死であれ、
その死の悲劇的な実相から視線をそらし、「英霊」などと美化・価値
化してしまうことは、一見戦死した兵士達を尊重しているようで、実は
逆に犠牲者達の死を愚弄・冒涜することなのです。
 なぜなら、彼らが自らの死をもって子孫の私達に残してくれた「戦争
の真の姿」という「知識・教訓」を無にすることだからです。欠陥自動
車の死亡事故の原因が、自動車の欠陥ではなく道路の不備とか雨
などが原因とされて自動車の欠陥が発見されなかったらどうでしょう
か。どんなにその人の生前の業績を賞賛されたとしても、自動車の
欠陥が見過ごされたら事故死した人は、死んでも死に切れないで
しょう。奪った命を政治的に利用して靖国神社のカミに祭あげ、
新たな戦争犠牲者を生み出す道具にしているのですから、天皇制
国家は卑劣極まりありません。
 三、
 本当は、私達は戦死した兵士達が今どこに居るのかさえわかり
ません。しかし、靖国神社に行きお参りすると心が晴れます。
なぜ、少しであれ靖国神社にお参りすると心が軽くなるのでしょう
か。それは「英霊」などとカミとして価値化せずにはいられないの
は、戦死した兵士達に対して後ろめたい気持ちがあるからです。
この「後ろめたさ」を解消するためにカミに祭り上げているのです。
 つまり、本当は「英霊」と呼び「英雄」として遇することで、戦死で
きなかった私達は、自己を「免罪」しているのです。それが、靖国
神社に行きお参りすると少しではあれ、心が晴れる理由であり、
証拠です。全ての墓、慰霊施設と同じように、靖国神社を必要
としているのは「英霊」ではなく、生きている私達自身なのです。 
 しかし、この「後ろめたさ」は、戦争責任を国民全体に負わせる
一億総懺悔論が産み出した幻想です。本当の最高戦争責任者
である天皇や政府、戦争を扇動したマスメディアに国民の憎悪
が向かないように、組織的プロパガンダが行われた成果なのです。
それで、戦死者が今どこに居るのかわからないのを知りながら国家
的功労者として「英霊」と呼び、遺族以外の人も毎年靖国神社に行
きお参りをしているのです。
  戦死した兵士達のほとんどは、第一義的には国家のためでは
なく、自己の家族のために戦ったので、天皇から見た場合だけ彼ら
は国家に殉じたのです。天皇の立場からは、家族のためだろうが、
国家のためだろうがどちらでも同じなのです。戦死した兵士達は
国家に殉じた、自分達国民のために死んでくれたと幸せな勘違い
をしている人は、自分を天皇と勘違いしている人か、よほどの
世間知らずのお人よしです。高校野球などで、単に好きな人の
気を引こうとしてがんばっただけの選手を、学校のため、自分達
在校生全員のためにがんばってくれたと幸せな勘違いしている
のと同じです。 ですから、彼らは、彼らの家族にとっては「英霊」
ですが、国家に対しては、国体=天皇制を守るための捨石
にされた文字どうり天皇制国家の戦争犠牲者なのです。
  あの戦争に勝ち、辛うじて生き延びた多くのアメリカ兵達も、
結局、朝鮮戦争で戦死してしまいました。あの兵士達が死ん
で、日本に良いことなど何も無かったのです。310万もの
日本人が死んだら、戦争に勝ったとしても何の意味もありま
せん。戦死した兵士達が本当に望んでいるのは、彼らの死を
「英霊=英雄」などと価値化して新たな戦争犠牲者を出すこと
ではなく、逆に彼らの真の悲劇を直視して、「戦争は勝っても
負けても民衆にとってよい事は一つもない」(吉本隆明)という
戦争の真実を生き残った日本人とその子孫の私達の脳髄に
刻み込むことだと確信します。
                     「市民の風」石井孝夫