沖縄のメディアの「報道魂」と朝日新聞「社説」との落差

12月 27th, 2007 Posted by higashimototakashi @ 19:58:59
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 12月27日付の各紙の朝刊トップ記事は、いうまでもなく沖縄戦の「集団自決」をめぐる
教科書検定問題でした。 

 この問題は本日の各紙社説でもいっせいにとりあげられていますが、とりわけ問題発信地の沖縄のメディアの社説は、当然といえば当然のことながら、「集団自決」をめぐる教科書検定問題の本質と教科用図書検定調査審議会(検定審)の存在そのものの問題性を完膚なきまで指弾していて読み応えがありました。

■[教科書検定審報告(上)]史実をぼかす政治決着 「強制」認めず「関与」へ
(沖縄タイムス社説 2007年12月27日付)
http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20071227.html#no_1
■教科書問題 「軍強制」は明らか/検定意見は撤回すべきだ
(琉球新報社説 2007年12月27日付)
http://ryukyushimpo.jp/news/storytopic-11.html

 どのように読み応えがあったか。たとえば沖縄タイムスの社説は地元の高校生に呼びかけるスタイルをとり、次のように書いています。

  ━━━━━━━━━━━
  高校日本史教科書の検定問題で教科用図書検定調査審議会は、教科書会社
  六社から訂正申請のあった沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」に関する記述に
  ついて、渡海紀三朗文科相に審議結果を報告した。

   そこで県内のすべての高校生に質問したい。

   以下の三つの文章は(1)が原文である。その後、文部科学省や審議会の意思
  が働いて(2)に書き改められ、多くの県民の強い抗議を受けて教科書会社が訂
  正申請をした結果、(3)の記述に変わった。さて、この三つの文章は、どこがどの
  ように変わったのか。なぜ、このような変更をしなければならなかったのか。その
  ねらいは何か。

   (1)「日本軍によって壕を追い出され、あるいは集団自決に追い込まれた住民
     もあった」

   (2)「日本軍に壕から追い出されたり、自決した住民もいた」

   (3)「日本軍によって壕を追い出されたり、あるいは集団自決に追い込まれた
     住民もあった」

   どうだろうか。

   よくよく読み比べないと気付かないような変化なので、二度、三度とゆっくり読み
  直してほしい。

   (1)は「日本軍」という主語と「集団自決に追い込まれた」という述語の関係が
  明確だ。だが、(2)は主語と述語が切れてしまい、両者の関係があいまいになっ
  ている。

   (3)は原文とうり二つである。原文がほぼ復活したといえるが、主語と述語の
  つながりはやや弱くなった印象だ。

   この一連の経過を通して見え隠れするのは「できれば日本軍という主語を消し
  たい」「日本軍と集団自決の関係をあいまいにしたい」という背後の意思である。

   検定審の結論は三点に要約される。

   第一に、検定意見を撤回していない。第二に、「日本軍によって強制された」と
  いうような軍の強制を示す表現は採用していない。第三に、日本軍によって「追
  い込まれた」などの軍の関与を示す記述は認められた。

   検定で消えた「強制」を「関与」という形で復活させ、この問題の決着を図った
  わけだ。
  ━━━━━━━━━━━

 沖縄タイムスの社説は、「よくよく読み比べないと気付かないような変化」のポイントを的確に整理し、だれにでもわかるように問題点を指摘しています。「説得」的な文章とはこういうものをいうのでしょう。

 対して、本土のメディアの社説はどうか。

 東京新聞の社説は「一連の問題を引き起こした今年春の検定は罪が重い」とし、また、毎日新聞の社説は「軍と住民との間の根底にあった強制的関係、絶対的な上下関係をきちんととらえたものとはいい難い」と、検定審のありようの問題点を指摘していて、権力の監視者(ウォッチドッグ)としてのメディアの役割を一応のところ果たしています。

■集団自決記述 「強制」排除になお疑問が残る
(毎日新聞社説 2007年12月27日付)
http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/news/20071227k0000m070146000c.html
■集団自決記述 『強制』なしで伝わるか
(東京新聞社説 2007年12月27日付)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2007122702075385.html

 これまでもことあるごとに指摘してきましたが、問題なのは朝日新聞の社説です。

■集団自決検定―学んだものは大きかった
(朝日新聞社説 2007年12月27日付)
http://www.asahi.com/paper/editorial.html#syasetu1

 沖縄のメディアが「歴史的事実を追究する努力を尽くさず、体験者の証言を顧みることもなく「集団自決」の本質とも言える「軍の強制」を削除できるほど、歴史は軽いものなのか」(琉球新報)とまで指弾している検定審の「裁決」を、「訂正申請の審議で、『軍が強制した』というような直接的な表現を最後まで許さなかったことには疑問がある」という留保条件はつけてはいるものの「この見解は多くの人が納得できるものだろう」とご託宣を宣(のたまわ)っているのです。

 上記のご託宣は、朝日新聞はいまやジャーナリズムの戦線から離脱している、あるいはひいき目に見ても離脱しかけている証左ともいえるように私は思うのです。

 沖縄のメディアとの比較はさておき、毎日新聞や東京新聞と比較してみても、朝日新聞(記者)はいまや、ニュース価値を評価するメディア独特の嗅覚やバランス感覚を明らかに喪失している(しかけている)、と指摘しないわけにはいきません。

参考:
■「言葉のチカラ」失った朝日〜マスメディアよ、ジャーナリストたれ(3)など
http://www.news.janjan.jp/media/0612/0612196738/1.php

東本高志

憲法9条を高く掲げた「国際協力」の道を探求しよう

12月 11th, 2007 Posted by higashimototakashi @ 11:15:20
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 憲法9条を高く掲げた「国際協力」の道を探求しよう
私たちは自衛隊のISAF参加に反対します

                             「平和への結集」をめざす市民の風

  いま改めて自衛隊のISAF参加は「合憲」か「違憲」かが問題になっていますが、「市民の風」は、自衛隊の《武力をともなう》ISAF参加は集団的自衛権の行使にあたり、違憲であると考えます。一方、政府の集団的自衛権に関する考え方は「固有の権利としては持っているが、憲法第9条の制約により、集団的自衛権の行使は違憲である」というものです。政府見解でさえ、自衛隊の《武力をともなう》ISAF参加は集団的自衛権の行使にあたり、違憲であることは明白といわなければなりません。

 そこで問題になるのが民主党・小沢代表の「ISAF参加合憲」発言です。小沢氏は『世界』11月号の論文で「国連の活動に積極的に参加することは、たとえそれが結果的に武力の行使を含むものであっても、何ら憲法に抵触しない」と、自衛隊の海外派兵そのものを違憲と考える私たちの立場から見て最低限の憲法解釈ですらない、すなわち違憲の政府見解をさらに超える自衛隊の「武力の行使を含む」海外派兵容認論を展開しているからです(民主党の正式な党見解である『憲法提言』でも同様のことが述べられています)。民主党・小沢代表のこうした考え方は誤っていると私たちは考えます。以下、小沢氏の論理に特有な現状認識の瑕疵、論理の飛躍を3点にわたって指摘してみます。

 第1。国連は、安保理常任理事国である5大国中心主義で運営され、安保理決議は妥協の産物です。まれに5大国の利害が一致した場合は、どのような武力行使決議でも国際社会の名で採択できますし、利害が一致しなければ、どの大国にも都合よく解釈できる玉虫色決議となり、国連を重視したくとも、決議内容が一義的に確定できない場合がほとんどなので、原理原則論的な国連重視主義は、そもそも成り立たちません。米英などのイラク侵攻も、安保理決議1441の恣意的な解釈によって正当化されました。小沢氏の「ISAF参加合憲」発言にはそうした国連・安保理の恣意性に関する認識が欠けています。

 第2。「ISAF参加合憲」をいう小沢氏の依拠する第2の前提は、「国連の権力主導による戦争は、『国権の発動』にあたらない」というものです。しかし、仮に自衛隊の指揮権を国連に移譲するとしても、その移譲を決定するのは、主権者である国民から間接的に選ばれた時の政府であるはずです。そして、この政府の行為は明らかに「国権の発動」というべきものです。小沢氏の論理は詭弁というほかありません。

 第3。小沢氏及び民主党は、インド洋での海上自衛隊の給油活動は「国連の枠組みでの行動」ではないから違憲だといいます。では、ISAFの活動への武力行使を含む参加は「国連の枠組みでの行動」といえるのでしょうか? ISAFの活動は国連軍の活動ではありません。ISAFの活動は、第1で述べた大国間の意図に左右されやすい安保理の恣意的な決議で認められた活動にすぎないのです。そのような活動を「国連の枠組みでの行動」とみなすことは難しいでしょう。ここでも小沢氏及び民主党の論理は破綻しています。

 もちろん、私たちは、「国際貢献」や「国際協力」は世界の平和と安寧のために重要で、大切な課題であると考えています。しかし、その「国際協力」と「国際貢献」は、他国の憲法にも、国連憲章などにも見られない先駆的な憲法9条を持つ国としてふさわしいものでなければならないだろうと考えています。軍事力に頼らない「国際協力」の方法はいくらでもあるはずです。国際社会に向かって、堂々と9条を掲げた「国際協力」の道を探求することこそが私たちが採るべき道ではないでしょうか。私たち「平和への結集をめざす市民の風」は、“どんなことがあっても自衛隊の海外派兵には反対”という旗幟を鮮明にした「国際貢献」を探求することこそが平和憲法の国の「国際貢献」にふさわしいものだと考えます。

*上記アピールは「『平和への結集』をめざす市民の風」としての決定稿(A4版)です。詳細は下記原案をご参照ください。

【原案】
自衛隊のISAF参加は合憲か? 〜「市民の風」はこう考えます(たたき台)

*この小文は「市民の風」内外の議論のための「たたき台」として書かれています。
ご意見をお寄せください。

 平和への結集をめざす市民の風運営委員
東本 高志

自衛隊のISAF参加は合憲でしょうか? それとも違憲でしょうか?

 民主党・小沢代表の「ISAF(注1)参加合憲」発言(『世界』11月号)(注2)以来、自衛隊のISAF参加は「合憲」か「違憲」かの問題があらためてクローズアップされています。

 私たちは、この問題を考えるに際して重要なポイントは2つあると思います。ひとつは、そもそも自衛隊の海外派兵は合憲か否かという問題。もうひとつは、自衛隊のISAF参加は憲法で禁止されている集団的自衛権の行使にあたらないのかという問題です。

政府見解も「武力をともなう自衛隊の海外派兵は違憲」

 はじめに自衛隊の海外派兵(ここでは武力をともなう場合に限定します)は違憲かどうかを見てみます。自衛隊の海外派兵を違憲とする考え方には、大きく分けて、

?自衛隊そのものを違憲とする立場から、当然、自衛隊の海外派兵も違憲とするもの
?自衛隊の存在は認める(合憲とする)が、自衛隊の海外派兵は違憲とするもの
?武力をともなわない自衛隊の海外派兵は認める(合憲とする)が、武力をともなう自衛隊の海外派兵は違憲とするもの(現政府見解)

の3つがありますが、ここでは、自衛隊の海外派兵という行為が蓋然的に担わざるをえない問題の本質を明らかにするために?の立場から見て自衛隊のISAF参加は合憲かどうかを見てみます。

 私たちは自衛隊の海外派兵そのものに反対ですが、1992年の「国際平和協力法(PKO協力法)」(自衛隊の海外派兵を法律的に可能にした)制定時の海部内閣の国会答弁でも「自衛隊の武力をともなう海外派兵は違憲」というものでした。

海部俊樹内閣総理大臣答弁(参院PKO特別委員会 1992年4月28日):
「PKOへの参加の場合、我が国が武力行使をするとの評価を受けることはないので、憲法の禁ずる海外派兵にはあたらない」

福田康夫内閣総理大臣答弁(衆院予算委員会 2007年10月11日):
「(ISAFへの参加は海外での武力行使を禁じた)憲法で規定する問題につながってくる可能性があると懸念している」

 自衛隊の《武力をともなう》ISAF参加は、これまでの政府(内閣法制局)見解(???のうちもっとも保守的な見解)に照らしてみても違憲であることは明白です。

政府見解も「憲法第9条の下における集団的自衛権の行使は違憲」

 集団的自衛権に関する政府(内閣法制局)の考え方は「固有の権利としては持っているが、憲法9条の制約により、集団的自衛権の行使は違憲である」というものです。政府見解でさえ自衛隊の《武力をともなう》ISAF参加は集団的自衛権の行使にあたり、違憲であることは明白であるといわなければなりません。
 
小泉純一郎内閣政府答弁書(内閣衆質151第58号 2001年5月8日):
「憲法第九条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えてきている」

安倍首相、集団的自衛権行使の研究を指示(朝日新聞 2007年5月18日):
「集団的自衛権の研究を掲げる安倍首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(座長・柳井俊二前駐米大使)の初会合が18日、首相官邸で開かれた。首相は、米国向け弾道ミサイルの迎撃など四つの事例を挙げて「新たな時代状況を踏まえた、新たな安全保障政策の構築」の検討を指示。集団的自衛権行使の禁止など政府の憲法9条解釈も含めて、安全保障に関する法的な制約を見直すことを諮問した」

 上記の安倍首相(当時)の集団的自衛権の見直し指示は、集団的自衛権に関する現在(2007年5月時点)の政府解釈も「憲法第9条の下における集団的自衛権の行使は違憲」としている反対証明になるでしょう。

 自衛隊の《武力をともなう》ISAF参加は集団的自衛権の行使にあたり、いまの政府(内閣法制局)見解によっても違憲であることは明白です。

民主党・小沢代表の「ISAF参加合憲」発言について

 そこで問題になるのが民主党・小沢代表の「ISAF参加合憲」発言です。小沢氏は『世界』11月号の論文で「国連の活動に積極的に参加することは、たとえそれが結果的に武力の行使を含むものであっても、何ら憲法に抵触しない」と、自衛隊の海外派兵そのものを違憲と考える私たちの立場から見て最低限の憲法解釈ですらない、すなわち違憲の政府見解をさらに超える自衛隊の「武力の行使を含む」海外派兵容認論を展開しているからです(民主党の正式な党見解である『憲法提言』でも同様のことが述べられています(注4))。

 民主党・小沢代表のこうした考え方は誤っていると私たちは考えます。以下、小沢氏の論理に特有な現状認識の瑕疵、論理の飛躍を3点にわたって指摘してみます。

第1。国連は、安保理常任理事国である5大国中心主義で運営され、安保理決議は妥協の産物です。まれに、5大国の利害が一致した場合は、どのような武力行使決議でも国際社会の名で採択できますし、利害が一致しなければ、どの大国にも都合よく解釈できる玉虫色決議となり、国連を重視したくとも、決議内容が一義的に確定できない場合がほとんどなので、原理原則論的な国連重視主義は、そもそも成り立たちません。米英などのイラク侵攻も、安保理決議1441の恣意的な解釈(注5)によって正当化されました。小沢氏の「ISAF参加合憲」発言にはそうした国連・安保理の恣意性に関する認識が欠けています。

 第2。「ISAF参加合憲」をいう小沢氏の依拠する第2の前提は、「国連の権力主導による戦争は、『国権の発動』にあたらない」というものです(注6)。しかし、仮に自衛隊の指揮権を国連に移譲するとしても、その移譲を決定するのは、主権者である国民から間接的に選ばれた時の政府であるはずです。そして、この政府の行為は明らかに「国権の発動」というべきものです。小沢氏の論理は詭弁というほかありません。

 第3。小沢氏及び民主党は、インド洋での海上自衛隊の給油活動は「国連の枠組みでの行動」ではないから違憲だといいます。では、ISAFの活動への武力行使を含む参加は「国連の枠組みでの行動」といえるのでしょうか? ISAFの活動は国連軍の活動ではありません。ISAFの活動は、第1で述べた大国間の意図に左右されやすい安保理の恣意的な決議で認められた活動にすぎないのです。ISAFの活動は国連憲章違反という事実に変わりはありません。そのような活動を「国連の枠組みでの行動」とみなすことは難しいでしょう。ここでも小沢氏及び民主党の論理は破綻しています。

憲法9条を高く掲げた「国際協力」の道を探求しよう

 もちろん、私たちは、「国際貢献」や「国際協力」は世界の平和と安寧のために重要で、大切な課題であると考えています。しかし、その「国際協力」と「国際貢献」は、他国の憲法にも、国連憲章などにも見られない先駆的な憲法9条を持つ国としてふさわしいものでなければならないだろうと考えています。軍事力に頼らない「国際協力」の方法はいくらでもあるはずです。国際社会に向かって、堂々と9条を掲げた「国際協力」の道を探求することこそが私たちが採るべき道ではないでしょうか。私たち「平和への結集をめざす市民の風」は、“どんなことがあっても自衛隊の海外派兵には反対”という旗幟を鮮明にした「国際貢献」を探求することこそが平和憲法の国の「国際貢献」にふさわしいものだと考えます。

【注】
1: ISAFとは、アフガニスタンの治安維持を通じアフガニスタン政府を支援する目的で、2001年12月5日のボン合意に基づく国連安保理決議1386号により設立された国際治安支援部隊(International Security Assistance Force) - 国際平和活動のひとつです。当初は有志国の集まりからなる多国籍軍により構成されていましたが、現在は北大西洋条約機構(NATO)が統括しています。ISAFの作戦本部はアフガニスタンのカブールにあり、司令本部はオランダのNATOブロンソン連合統合軍司令部に置かれています。いずれも、欧州連合軍最高司令官(Supreme Allied Commander Europe: SACEUR)の指揮下にあります。

2: 「私が政権を取って外交・安保政策を決定する立場になれば、ISAFへの参加を実現したい」(『世界』11月号 p151‐152)「国連の平和活動は、たとえそれが武力の行使を含むものであっても、日本国憲法に抵触しない」(同 p151)

3: 深瀬忠一「現代国際法上の自衛権についての一考察−日本国憲法における自衛権の解釈のために」北大法学論集38(5−6上)

4: 民主党『憲法提言』(05年10月31日)「?.より確かな安全保障の枠組みを形成するために」「2.わが国の安全保障に係る憲法上の4原則・2条件」「(1)わが国の安全保障活動に関する4原則」「?国連の集団安全保障活動を明確に位置づける」
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/minnsyukennpouteigenn.htm#s05

5:安保理決議1441は全会一致で採択されましたが、5常任理事国のうち米英を除く3ヶ国、すなわちフランス、ロシア、中国は、同決議は「自動的開戦」を認めるものではないことを明確に主張しました。が、アメリカ、イギリスは同決議1441の文言を恣意的に解釈し、米英のイラク侵攻を正当化しました。 

6: 「言うまでもなく、日本国憲法第九条は国権の発動たる武力の行使を禁じています」(『世界』11月号p149)「国連の平和活動は、たとえそれが武力の行使を含むものであっても、日本国憲法に抵触しない」(同 p151)という小沢氏の発言から類推できます。

「中選挙区比例代表併用制を提案する」に対しコメントされた方へ

12月 11th, 2007 Posted by MITSU_OHTA @ 8:10:57
under 一般 1 Comment 

「中選挙区比例代表併用制を提案する」に対しコメントされた方がいると思うのですが、間違って削除してしまったようです。申し訳ありません。

太田光征

パトリオットミサイルはいらない!第2回市民統一行動

12月 3rd, 2007 Posted by MITSU_OHTA @ 8:38:06
under 一般 [186] Comments 

12月1日に行われたPAC3(パトリオットミサイル3)の配備に反対する千葉県内市民行動の第2回目の模様を撮影してきました。津田沼駅前公園での基調報告と1都3県で同様の行動に取り組んでいる方々からの訴え、その後のデモなどを6つに分けて収録してあります。

 
津田沼駅前集会の前半部
http://video.google.com/videoplay?docid=-91718139237580080
津田沼駅前集会の後半部
http://video.google.com/videoplay?docid=-1223673198021915304
津田沼駅前でのデモ行進の様子
http://video.google.com/videoplay?docid=-7637053470662116625
薬円台公園から習志野基地前までのデモ
http://video.google.com/videoplay?docid=5770833753676643382
習志野基地(航空自衛隊習志野分屯基地・陸上自衛隊習志野駐屯地)前での抗議アピール読み上げ
http://video.google.com/videoplay?docid=-7366425604639651646
11月29日にPAC3装備品の一部が搬入された習志野基地演習場前にて
http://video.google.com/videoplay?docid=4971285126449614640

 

パトリオットミサイルはいらない!第2回市民統一行動

パトリオットミサイルはいらない!第2回市民統一行動

パトリオットミサイルはいらない!第2回市民統一行動

パトリオットミサイルはいらない!第2回市民統一行動

パトリオットミサイルはいらない!第2回市民統一行動

パトリオットミサイルはいらない!第2回市民統一行動

パトリオットミサイルはいらない!第2回市民統一行動

 

航空自衛隊習志野基地第一高射隊長 原田一樹殿
防衛大臣 石破 茂殿
内閣総理大臣 福田康夫殿

              

抗議アピール

 政府・防衛省は、11月29日未明、私たちの「配備反対」の訴えを暴力的に排除して、航空自衛隊習志野分屯基地への「PAC-3」システムの搬入を強行しました。9月28日の防衛省に対するヒアリングにおいては「搬入は12月〜1月」「地元住民への理解が必要。そのための説明を行う」と明言しておきながら、そのような地元住民への説明は一切行われることはなく、関連自治体への一方的な通達のみで抜き打ち配備が行なわれました。こうした国民主権と地方自治の本義を無視した政府・防衛省の暴挙に、私たち本日の抗議集会の参加者一同、強い怒りの念を表明します。

 今回の搬入強行を前に、防衛省は入間基地に配備済みのPAC-3の首都圏移動展開訓練を12月に実施することを発表し、合わせて引き続き首都圏のみならず全国各地での同様の展開訓練実施も表明しています。ことのことは、3月30日の入間、そして今回の習志野同様、地元市民の意思を圧殺しての強行配備を繰り返すということです。

 国会での「給油新法」の審議過程に明らかなように、自衛隊の海外派兵を恒常化させようとする政府・防衛省そして軍需産業の目論みと世論との乖離があらわになっています。入間における市民のPAC-3配備反対運動に続く私たちの習志野基地への配備反対の運動は全県的な広がりを実現しています。本日の集会には、これから配備が予定されている武山、霞ヶ浦での反対運動の皆さん、移動展開訓練が予定される東京の皆さんも参加され、「防衛」の名目で日本国憲法の平和主義を蹂躙し、アメリカの軍事力・核攻撃力を貴重な税金をつぎ込んで後押ししようとすることへの、主権者・納税者の「NO!」の声が着実に拡大していることを如実に示しています。そして本日同時に岩国で開かれる米軍艦載機移転抗議集会はじめ各地の米軍再編に抗する闘い、沖縄市民の巨大な闘いがあります。オーストラリアでは、先日の国政選挙の結果を受け、イラクからの撤兵が確定し、同国のミサイル防衛への参加見直しも必至です。ポーランド、チェコでのミサイル防衛反対の世論・運動も拡大しています。今や、アメリカ主導の全世界の軍事的再編への抗議・反対は、日本国内と国際世論の多数派であると断言できます。

 私たちは、この国内と世界の世論をさらに束ね、強化し、日本国憲法の平和主義の理念を実現する正当な要求として、習志野、入間からのPAC-3の撤去、日本のミサイル防衛からの撤退を求める闘いを最後まで貫徹することを政府・防衛省に対して宣言します。

 重ねて、今回の習志野分屯基地へのPAC-3配備強行に強く抗議し、政府・防衛省に以下を求めます:

?今回配備が強行された習志野基地への追加搬入をやめ、PAC-3をすみやかに撤去すること。
?入間基地のPAC-3の首都圏移動展開訓練をやめ、入間基地から撤去させること。
?ミサイル防衛への参加も含め「米軍再編」に組み込まれた新防衛大綱を根本的に見直し、自衛隊の戦力縮小を広く国民世論に付託して検討・実施すること。
?日本国憲法の精神と理念に基づき、武力によらない平和の実現に尽力すること。

 2007年12月1日
          

「習志野基地へのPAC-3強行配備糾弾!市民統一抗議行動」参加者一同

 
太田光征
http://otasa.net/

日本と諸外国ではこんなにも選挙制度・行政システムが違うのか! 「目からウロコ」のお話

11月 29th, 2007 Posted by MITSU_OHTA @ 15:01:55
under 一般 [12] Comments 

2007年11月23日に、「開かれた議会をめざす会」主催シンポジウム「『議会基本条例』を考える!!−そのあり方と活用の仕方について−」で、友人の田口房雄さんが選挙制度の話題を提供しました。その様子を収めたビデオです。

YouTube版もあります:
その1
http://www.youtube.com/watch?v=aesyyJXAjRM
その2
http://www.youtube.com/watch?v=zPY8rEwFC-g
その3
http://www.youtube.com/watch?v=Gz-pYvFEuRs

ヨーロッパでは国政選挙も自治体選挙も比例代表制を採用しているところが多い。首長選挙は行わず、議会選挙で選出された議員の中から執行委員会や参事会を構成して行政にあたる。その結果、行政権が与党系の首長に独占されない。

スウェーデンでは、各党が選挙の1年前から比例区候補者名簿を作成し、有権者の意見を聞く。投票の際、有権者は、その名簿が気に食わなければ、政党内・政党間での候補者の入れ替え、順位変更ができる。

アメリカのバークレー市議会では、「パブリック・コメント」として、小学生でも毎週1回、議会で発言できる。委員会は「平和と正義委員会」「警察監視委員会」を含め42もあり、市議は市民を委員に推薦できる・・・。

日本と諸外国ではこんなにも選挙制度・行政システムが違うのか! 「目からウロコ」のお話を聞くことができます。

田口さんの資料は、私が管理している彼の公式サイト(http://fusao.jp/)に順次アップする予定です。

太田光征

中選挙区比例代表併用制を提案する
http://kaze.fm/wordpress/?p=164
http://otasa.net/

戦死した兵士を愚弄する日本

11月 5th, 2007 Posted by takao ishii @ 5:21:49
under 一般 [5] Comments 
一、
 62年前、日本は310万人もの戦争犠牲者をだして無条件降伏する
ほどの完膚なき敗北を喫し、生き残った日本人も辛酸を舐めつくす事
態を経験しました。戦死した230万以上もの兵士達のほとんどが、
自己の家族の安寧を守るために出征し死にました。
  しかし、兵士達の願いとは逆に、彼らの家族の頭上に焼夷弾や爆弾、
原爆まで落とされてしまいました。家族の安寧を守るどころか、むし
ろ逆に戦死した兵士自身が加担した戦争により、家族を未曾有の危機
に陥れてしまったのです。更に自らは遠い異国で戦死したために家族
を助ける事も出来なかったのです。
 さぞかし無念な死だったでしょう。戦死した兵士達は家族を守るつ
もりで戦ったのに、逆に家族を生死の危機に陥らさせてしまったの
ですから、これが「無駄死」でなくて何が「無駄死」だと言うのでしょ
うか。兵は「無駄死」、「犬死」を強いられたのです。死んでも死に切
れない無残な死を強いられたのです。
 兵士だけでなく、一般の民衆も含めて310万人もの膨大な犠牲者
を出してしまった戦争は、日本の歴史上他に例がありません。  しか
し、政治家やマスメディアは、毎年8月に「戦争犠牲者達の死が戦後
の日本の発展の礎になった」などと唱えます。この「礎説」は一見
戦争犠牲者に報いる言葉のようですが、その意味を冷静に考えれ
ば「彼らが死んでくれたから、戦後日本は急速な発展をした」、「彼ら
が生きていたら、日本は発展しなかった」と言っているのであり、戦争
犠牲者達を愚弄する言葉です。  もし、先の大戦で犠牲となった310
万人もの日本人が死なずに生きていれば、戦後の日本は現在よりも
遥かに発展したのは間違いありません。そもそも、310万もの日本人
が死んだら、たとえ戦争に勝ったとしても何の意味もないのです。
  戦争で明治憲法体制が自滅し、日本人自らの力で民主主義を獲得
しなかったために、民主革命が中途半端なものとなり、今でも毎日90
人もの人々が自殺し、戦後の61年間で150万人以上も自殺者を出し
た冷たい社会が続いているのですから、この「礎説」は明白な虚言です。
 なぜ、このようなウソを政治家やマスメディアは、毎年呪文のように
唱えるのでしょうか。
 この「礎説」を、政治家やマスメディアが毎年呪文のように唱える
本当の理由は、犠牲者の死が何の価値もない「無駄死」、「犬死」
だったとすると、彼らを特攻までさせて「無駄死」させたのに自らは
生き残った政治家や軍人、マスメディアに巣くう戦争責任者達が、
生き残った「後ろめたさ」を解消できないからです。
  更に、犠牲者の死が何の価値もない「犬死」ではなく有意義な死、
価値のある死だったのだから迷わず成仏してくれ、生き残った戦争
責任者を恨まないでくれという呪文なのです。また、有意義な死だ
とすると、犠牲者の遺族も少しは慰められ、遺族の戦争責任者へ
の憎悪も減ると姑息な計算をして産み出された呪文です。  要する
に、狡猾に戦後の社会を生き伸びた戦争扇動人達が、戦後の日本
が「素早く」復興したことを根拠に、未曾有の大敗北を喫した戦争を
無残な悲劇としてでなく、終わりよければ全てよしとばかりに、
ハッピ−エンドの物語に偽装するために考え出した言辞です。
 しかし、負け戦での戦死を価値化しようとしても土台無理な話です。
日本の支配層は、治安維持法で自由な言論を統制し、鬼畜米英な
どと国民の恐怖心をあおり、国民をだまして無謀な戦争を始めたの
に、卑劣にも皇族東久邇宮は、一億総懺悔などと言い出して戦争
責任を国民全体に転嫁し、天皇をはじめとする戦争指導者達の
戦争責任を隠蔽しようとしました。  この「礎説」は、生き残った戦争
扇動者が考え出し、マスメディアの同類が広めた解釈で、戦争責任
者を救済するための虚構です。
 政府や軍、マスメディアに巣くい、戦争の大義を捏造して国民を騙
した昭和天皇を含む無脳な戦争指導者も兵士を「犬死」させたA級
戦犯です。不本意であれ、最終的には最高責任者として戦争を
承認したのですから、昭和天皇には逃れがたい戦争責任がある
ことは、本人も認めているように間違いありません。
 戦争指導者達は、日本の国力を過大視して日本を帝国主義的な
植民地争奪戦に参加させ、挙句の果てに狡猾なアメリカのワナに自
らはまり、戦争か「全面降伏」かと恫喝される状況に自ら陥りました。
戦争責任者達は、長年国民に対して大言壮語をしてきたので、また
植民地争奪戦のために多くの犠牲を国民に強いてきた手前、「全面
降伏」を選択して植民地争奪戦の「成果」を手放すと天皇制そのも
のの危機に陥りかねないので、結局あのような無謀な戦争を選択
するしかなかったのです。まさに、天皇制という国体護持のために
戦争を始めざるを得なかったのです。
 民間人にさえも無謀な戦争だとわかっていた人がいました。第一
次大戦の経験から総力戦になることもわかっていたはずです。
しかし、天皇制を維持するために、極めて甘い予測で戦争を始め
て、日本を戦争加害者の立場、「悪」の立場に貶めたのです。先の
大戦は単に「止むを得ない戦争だった」のではなく、天皇制を守る
ために「止むを得ない戦争だった」のです。戦争を唱導した天皇、
その他全ての政治家や高級官僚、指導的軍人は、皆日本人自身
の手で断罪されるべきでした。
 二、
 「イジメ」で自殺した学童は、自殺しなければならなかった
苦悩を関係者に理解して欲しいはずです。誰でも「イジメ」ら
れたら、自分と同じように苦しむと思える人は自殺はしませ
ん。自分だけが特別に弱い存在で、そのような弱い自分は
生きる価値がないと自分自身に絶望して、極限の自虐心理
に押しつぶされ自殺するのです。ここに彼らの本当の悲惨・悲劇
があります。ですから、彼らが体験したこの悲惨な心理まで理解
しなければ、彼らを本当に供養したことにはならないでしょう。
 「イジメ」で自殺した学童の死を、生き残った関係者が、その死
によって「イジメ」が減ったことを根拠に、「イジメ」が減らすために
貢献したと死を価値化して解釈しても、それは生き残った関係者
にとっての死の解釈です。同様に「礎論」も、これと同じ生き残っ
た人による解釈ですが、生き残った私達に都合が良すぎるこじ
付け解釈です。戦争犠牲者達が死んでも死に切れない死を、
「犬死」を強いられたことをに彼らの真の実相があり、悲しみが
あります。ですから、「イジメ」で自殺した人と同じように、この彼
らの悲しみを直視し、彼らの無残な死と悲しみに思いをはせる
ことこそが真の戦争犠牲者達への供養です。
 戦死ならまだ良い死に方でした。日本の戦死者には、異常な
ほど餓死で死んだ兵が多いのです。信じ難いことに、軍事物資
や食料の補給を重視するという初歩的な軍事知識さえない無能
な軍首脳達が、一番大切なこの補給を無視したため、兵士達は
派兵先の現地住民から食料を強制徴発せざるを得ず、強盗・
盗賊と見なされて殺されたり、極限的飢餓状態で、死んだ仲間の
日本兵の死体さえ食べて生き延びらざるを得ない状況に陥った
兵士もいたのです。 
 餓死した兵士達が、子孫の私達も戦場で餓死することを望む
はずがありません。仲間の死体を食べなければならないような
悲劇が再現されることを望むはずがないのです。彼らが望む
ことは、自分と同じような無残な死に方を、子孫の私達が再び
しないことであるはずです。ですから、彼らはどのように死んだのか
真実を知ってもらいたいのだと思います。どんなに悲惨な死であれ、
その死の悲劇的な実相から視線をそらし、「英霊」などと美化・価値
化してしまうことは、一見戦死した兵士達を尊重しているようで、実は
逆に犠牲者達の死を愚弄・冒涜することなのです。
 なぜなら、彼らが自らの死をもって子孫の私達に残してくれた「戦争
の真の姿」という「知識・教訓」を無にすることだからです。欠陥自動
車の死亡事故の原因が、自動車の欠陥ではなく道路の不備とか雨
などが原因とされて自動車の欠陥が発見されなかったらどうでしょう
か。どんなにその人の生前の業績を賞賛されたとしても、自動車の
欠陥が見過ごされたら事故死した人は、死んでも死に切れないで
しょう。奪った命を政治的に利用して靖国神社のカミに祭あげ、
新たな戦争犠牲者を生み出す道具にしているのですから、天皇制
国家は卑劣極まりありません。
 三、
 本当は、私達は戦死した兵士達が今どこに居るのかさえわかり
ません。しかし、靖国神社に行きお参りすると心が晴れます。
なぜ、少しであれ靖国神社にお参りすると心が軽くなるのでしょう
か。それは「英霊」などとカミとして価値化せずにはいられないの
は、戦死した兵士達に対して後ろめたい気持ちがあるからです。
この「後ろめたさ」を解消するためにカミに祭り上げているのです。
 つまり、本当は「英霊」と呼び「英雄」として遇することで、戦死で
きなかった私達は、自己を「免罪」しているのです。それが、靖国
神社に行きお参りすると少しではあれ、心が晴れる理由であり、
証拠です。全ての墓、慰霊施設と同じように、靖国神社を必要
としているのは「英霊」ではなく、生きている私達自身なのです。 
 しかし、この「後ろめたさ」は、戦争責任を国民全体に負わせる
一億総懺悔論が産み出した幻想です。本当の最高戦争責任者
である天皇や政府、戦争を扇動したマスメディアに国民の憎悪
が向かないように、組織的プロパガンダが行われた成果なのです。
それで、戦死者が今どこに居るのかわからないのを知りながら国家
的功労者として「英霊」と呼び、遺族以外の人も毎年靖国神社に行
きお参りをしているのです。
  戦死した兵士達のほとんどは、第一義的には国家のためでは
なく、自己の家族のために戦ったので、天皇から見た場合だけ彼ら
は国家に殉じたのです。天皇の立場からは、家族のためだろうが、
国家のためだろうがどちらでも同じなのです。戦死した兵士達は
国家に殉じた、自分達国民のために死んでくれたと幸せな勘違い
をしている人は、自分を天皇と勘違いしている人か、よほどの
世間知らずのお人よしです。高校野球などで、単に好きな人の
気を引こうとしてがんばっただけの選手を、学校のため、自分達
在校生全員のためにがんばってくれたと幸せな勘違いしている
のと同じです。 ですから、彼らは、彼らの家族にとっては「英霊」
ですが、国家に対しては、国体=天皇制を守るための捨石
にされた文字どうり天皇制国家の戦争犠牲者なのです。
  あの戦争に勝ち、辛うじて生き延びた多くのアメリカ兵達も、
結局、朝鮮戦争で戦死してしまいました。あの兵士達が死ん
で、日本に良いことなど何も無かったのです。310万もの
日本人が死んだら、戦争に勝ったとしても何の意味もありま
せん。戦死した兵士達が本当に望んでいるのは、彼らの死を
「英霊=英雄」などと価値化して新たな戦争犠牲者を出すこと
ではなく、逆に彼らの真の悲劇を直視して、「戦争は勝っても
負けても民衆にとってよい事は一つもない」(吉本隆明)という
戦争の真実を生き残った日本人とその子孫の私達の脳髄に
刻み込むことだと確信します。
                     「市民の風」石井孝夫

報告と感想:10.7シンポジウム「対テロ戦争開始から6年―アメリカ追従政策を問う」

10月 13th, 2007 Posted by MITSU_OHTA @ 23:52:29
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10.7「対テロ戦争」シンポジウム に参加しての個人的な報告と感想です。当日の様子を映したビデオは撮影者にお願いしてGoogleビデオのサイトにアップしてもらう予定でいます。

10.7「対テロ」シンポ

竹村さん

まず、志葉玲さんから。ビデオ映像を交えて、「対テロ」戦争が「対テロ」戦争になっていないことを改めて説明してくれました。

きくちゆみさん・志葉玲さん

自衛隊は連合軍の主要メンバー

イラクのファルージャで、「ザルカウィ」なるテロリストを討伐するとの名目で米軍は空爆を行いました。その現場を取材したところ、武器、弾薬などはなく、あるのは女性や子供の衣服だった。証言者によれば、米軍は一般市民を縛り上げて銃撃した。子供もクローゼットに押し込めて銃殺。テロ容疑者がいるとしても、取調べをするべきであって、子供まで手にかける必要はない、と。

ファルージャ1

ファルージャ2

イラクはシーア派が6割、サダム・フセイン支持層だったスンニ派が2割、残り2割がクルド人という構成になっています。

このシーア派に属するイラク・イスラム革命最高評議会(SCIRI)の最高幹部が内務省のトップに就任して以来、民兵や警察によおるスンニ派狩りが過激化した。肩にドリルで穴を開け、そこから硫酸を流し込むなど。その結果、スンニ派からシーア派への復讐がおき、悪循環に陥っているという。

ファルージャ4

日本はODAとして内務省に400億円を渡しており、この点でもイラクの悲劇に加担していることを指摘された。イラクの安定化には、石油文明を止めることではないか、との根本的な提案も。

次ぎは川田龍平さんの番。政党からの推薦を受けない完全無所属の当選は、1965年の市川房枝さん以来だとか。無所属候補が当選できないのは、選挙制度の影響が大きいと私は思う。

川田龍平さん・小林正弥さん

2001年、お母さんの川田悦子さんがまさに国会前でテロ特措法に反対する24時間ストを行っていたが、同法は成立してしまった。政治を変えたい。無所属による国会活動の大変さは分かっていた。一人では難しい。ところが参院では委員会でも個人の時間が確保できるし、参考人招致も個人で可能であり、十分活動できると判断したのだという。

私や田口房雄さん、その他から、比例代表制関連の質問が川田さんに集中しました。現在の比例代表制では議席配分方式としてドント式が採用されていて、大政党に有利であること、地方議会でも比例代表制を採用するのがよいことなどを話されました。

田口さんによれば、地方議会でも比例代表制をという主張をした国会議員は、川田さんが初めてではないかという。マニフェストでも明記されています。明日の命さえどうなるか分からないという切迫感がそうした主張をさせている、という田口さんの分析には納得した。

沖縄に雇用を生みながら、平和のための常設国際議会を設ける構想を、10年、20年かけてやっていきたいとの抱負も語っていた。

最後に小林正弥さんのお話。多岐に渡る内容ですが、争点となるのは自論の「墨守・非攻論」と次期総選挙へ向けての政権交代論ではないかと思います。

「墨守・非攻」というのは、一般的に言えば「専守防衛」です。自衛隊の存在は合憲だが、現在の装備は防衛の範囲を越えるので違憲、海外派兵は決定的に違憲、という考え方です。ちなみに五十嵐仁さんは「気休め自衛隊論」(これは私の言い方です)かと思います。気休め程度の防衛力ならOKということ。

アンケート用紙の感想でも語られていますが、自衛隊を違憲とみなす層からは反発を受ける考え方です。選挙共同や、野党連合の軸として提唱する際は、あくまで暫定的な統一政策としての「墨守・非攻」を強調しないと、受け入れられないのではないか。

政権交代を否定する野党支持者はまずいないと思うのですが、政権交代後の見通しについては、共通の認識がないようです。小林さんの見方では、政権交代によって自民の暗部がさらけ出され、この意義が大きいという。これは民主についても同様だろうと。自民は復帰を狙ってくるが、それを阻止して新たな政治の可能性を模索するために、「超党派的市民連合」を想定されています。川田選挙がそのいいモデルだという考え方です。

ところが、現在の小選挙区制が維持されたままでは、この制度を最大限に利用して(保守)二大政党制に持ち込む政治力学が常に作用するでしょう。無所属候補の当選は相変わらず困難です。川田さんはギリギリの5位当選であることに留意する必要があります。1人区での川田モデルは非常に困難です。

今のうちに小選挙区制の廃止へ向けた動きを仕掛けて置く必要があると私は思います。

コーディネーターを務めたきくちゆみさんからは、1日2人に情報を伝えると28日で1億人に伝わる例が紹介され、一人一人がメディアになることを提案されました。集会ではいつも主張していますね。私からは下の写真のような個人メディアアクションがお勧めです。

また、沖縄・辺野古の基地のことをアメリカ人に言うと、そんなことはアメリカではNOと言われるとのこと。だからアメリカへの働きかけが必要なのだといいます。

個人メディアアクション
(電車内にて:ネームプレートを利用したメディアをカバンに取り付けている)

太田光征